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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<仮想敵としてのセックス

フーコー 現在、ひとつの動きが姿を現しつつあります。その動きは、「常にさらなる性を」、あるいは「常にさらなる性の真理を」という、数世紀のあいだ我々が従わされてきた流れを、逆向きにたどっているように思われます。すなわちそれは、快楽、関係、共存、絆、愛、強度の別の形式を、再発見するというよりもむしろ、文字通り最初から作り出そうとする、そうした動きです。私には、現在、「アンチ・セックス」のうなり声が聞こえるように思われます(私は預言者ではありませんし、せいぜい、診断を下しているにすぎませんが)。あたかも、性を普遍的な秘密として解読させようとするあの大いなる「セクソグラフィー」を揺るがせにしようという努力が、秘かになされているかのようです。
 …………
────性に没頭し、そこに釘付けになるというのが、我々にとってひとつの宿命のようなものではない、ということでしょうか。しかし実際は、子供のときから……。
フーコー まさしく、その子供たちに何が起こっているかを見ていただきたい。子供たちの生活は性的なものである、ということが言われます。哺乳瓶の時期から思春期に到るまで、ただ性だけが問題なのだ。読み方を覚えようとする欲望や、漫画への嗜好にしても、その背景には、やはり常に性現象があるのだと。いったい、このようなタイプの言説は、本当に解放へと導くものなのでしょうか。むしろそれは、子供たちを一種の性の孤島に閉じこめるものではないのでしょうか。そして、子供たちにとっては結局、そんなことはどうでもかまわないのだとしたらどうでしょう。性についての法や原則や常識に隷属しないということにこそ、大人でないことの自由があるのだとすれば。もし、事物や人々、身体に対して、多形的な関係がありうるとすれば、まさしくそれこそが、子供というものではないでしょうか。大人たちは、安心のために、この多形性を倒錯と呼び、それを自らの性の退屈な単彩画にしてしまうのです。」
(ミシェル・フーコー「性の王権に抗して」)
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