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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<反フロイトの道具立て

「エネルギーのあらゆる現象形態は、ただひとつの根源の力が変容したものにすぎないので、エネルギーの形態はどれもみな、互いに他の形態に変換できる。したがってバルザックの体系は、万象一体思想のあらゆる形態と同じく、エネルギー一元論であると同時に普遍的動力論でもある。これは何よりもまず、人間の叙述家にとってもっとも重要な領域、つまり精神生活にあてはまる。
 心的動力論が、人間の精神生活に対するバルザックの見解の基盤である。精神動力学の過程、エネルギー変転の経過が、バルザック心理学の基本的構図である。ところで、愛情欲求が心的エネルギーの主要形態である以上、あらゆる精神動力論の内で最高位を占めるのは性愛願望エネルギーの変換ということになる。『人間喜劇』のどれでも好きな作品を開いてみれば、ほとんど確実にこのようなケースに行き当たることだろう。
 その際バルザックの考える性愛とは、決して愛情一般のプロトタイプではなく、その特殊形態にすぎないことを忘れてはならない。バルザックは近代の汎性欲説とは全く無縁である。……だから彼が性エネルギーの変化を持ち出しても、決してそれを衝動の変化という意味で解してはならない。
 このことは、この種の変形の幾つかの例から確認できるだろう。ド・デー夫人の結婚生活は不幸だった。このため彼女に授けられた愛の力は転移して、《母性という唯一の感情》に凝集する。彼女はただただ息子によってのみ生きている。そして彼方の地で息子が銃殺刑に処せられたその刹那、何ひとつ知らなかったのに、彼女もまた息絶える(「徴集兵」)。ルネ・ド・レストラードは打算だけで結婚した。それでも彼女は病気がちの夫に幸せをもたらしたのだ。彼女は夫に対して抱いた同情心を材料に、《ともかく愛情を生産した》からである。しかし、彼女は《母性愛をほとんど信じがたいほどに高揚させることで》充たされぬ性愛願望を埋め合わせているのだ(「若妻」)。ミノレ博士は《父性》が非常に発達している。ところが妻はひとりの子供も産んでくれなかった。子供に代わって彼の心を慰めてくれるのは慈善である。彼の慈善は、《裏切られた父性の復讐》なのだ(「ミルエ」)。オールドミスのコルモン嬢は、彼女の《圧し殺された母性》を充たしてくれる対象を必要としている。彼女はこの愛情を十八歳の馬車馬に注ぐ。そのため彼女の家では、この馬のことが始終話題にのぼっているのだった(「老嬢」)。ルイ・ランベールの母親は、《彼女の能力を残らず母性愛に投じて》世を去った(「ルイ・ランベール」)。タデー・パスは、彼が断念せざるをえなかった愛について、ランジスカ伯爵夫人に語っている。《私は母性愛の喜びを恋愛の中で知りました。だから私は人生を甘受できたのです》(「偽りの愛人」)。フェリックス・ド・ヴァンドネスは、子供の頃両親からも兄弟からも愛されなかった。抑圧された愛情への欲求は、彼の中で、その後の彼の人生全体を潤すことになる精神エネルギーへと深まって行く。《人に認めてもらえないという感情が、転じて憎悪に変わるような心の持ち主も何人かはいるものですが、私の場合、そうした感情は凝集して温床をつくり上げ、後に私の人生へほとばしり出たのです》。後に彼は清らかで敬虔なモルソーフ夫人と出会い、彼女を崇拝するようになる。しかし彼は自分の愛を直接言葉で告白することはできない。野の花を集めて作った見事な花束、《私が自分の憧憬をまぎらすために、ベートーヴェンが楽譜に表わしたあの努力を注ぎ込んだ花々のシンフォニー》に託して、彼は愛を告白する(『谷間の百合』)。マリアンナ・ガンバラは夫を愛しているが不幸である。というのも夫はただ自分の固定観念にのみ、人生を捧げ尽くしているからだ。アンドレア・マルコシーニは、この不幸を埋め合わせられるかもしれない、と彼女に教えてやる。《あなたの心を殺し、あなたの人生を抽象の世界へ移してやれば、それで充分満足だったでしょう。足りないところは宗教が吸収してくれたでしょう。そうすればあなたは、祭壇の足もとに額突いて自然の本能を殺してしまう聖女たちのように、ひとつの観念の中で生きられたでしょう》(「ガンバラ」)。七年間の幸せな結婚生活が、妻を失うことで終わりを告げたとき、ゴリオの娘たちへ向けた愛情は、偶像崇拝にも似た盲目的なものとなる。《死の手に欺し奪られた愛情のはけ口を、彼は二人の娘に向けた》(『ゴリオ爺さん』)。徴税代官ベルジュレは、かつて自分の地所カッサンに何百万もの金を投じてイタリアのある風景を再現させてみたり、女帝の愛を授かったりしたものだった。だがもはや、彼は何ものにも歓びを感じない。彼は一匹の大きな猿に《心奪われていた》(『結婚の生理学』)。音楽家ポンスのケースは典型的だ。彼はすさまじいほどの醜男で、《女性が微笑みかけてくれるのを見たことは一度もなかった》。《たいていの人間は、こうした致命的な宿命を背負い込んでいるものなのだ》。彼は手に入れられない愛の幸福を、絵画蒐集と美食、つまり《有徳の僧の道楽》で埋め合わせる(『従兄ポンス』)。
 モルソーフ夫人は、フェリックス・ド・ヴァンドネスの愛に応えてはならない。彼女は自分の愛をただの好意に変えねばならない。パリへ出発するフェリックスに、彼女は推敲を重ねた生活上の戒律を持たせてやり、これを《精神的に母となること》であるという(『谷間の百合』)。カミーユ・モーパンのカリストに対する関係も、これとよく似ている。彼女は彼のことを、《私に母性の倦怠を味わわせなかった息子》と呼んで、母親のように彼の幸福のため心を砕く(「ベアトリックス」)。バルタザール・クラースは、いったん固定観念の呪縛から解き放たれると、《久しく消え失せていた父親の感情》が彼の心に《戻って来る》(『絶対の探求』)。
 このようなエネルギー変換は、生理的障害を伴うこともありうる。娼婦エステル・ド・ゴプセックは、リュシアン・ド・リュパンブレを愛したことですっかり変わった。彼女は情熱をこめて、清純で敬虔な新しい生活に憧れ、これを実現しようと懸命になる。ある貴族的な教育施設で、彼女は洗礼を受けるための心構えを教えられる。人柄は変わり、道徳感は純化され、心は高揚する。だが三ヵ月目に、原因は自分でも分からないまま、彼女はおぼろげな抵抗感を心に感じた。彼女は病気になる。《彼女の内で生の力が転換して、そのために必然的に苦痛を伴ったものか? あたかも医者と作家、聖職者と政治家が猜疑を超越してはいないかのように、科学が対象をあまりにも非道徳で聞こえが悪いと見なして検証を軽んじてきたような状況にあったは、何もかもが疑わしく混沌としている》(『浮かれ女盛衰記』)。
 以上が、精神生活に関するバルザックの動力学的見解を示す実例である。」
(E・R・クルティウス『バルザック論』)
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