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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<羨望の弾丸

「ルソーはすでに気付いていた。エゴティズム(自身の福利への関心)は公共の善に対立する概念ではない。なぜなら、エゴティズム的な関心事からは、利他主義的な規範も導き出すことができるためだ。個人主義と共同体主義、功利主義と普遍的規範主義といった対立構図はにせである。それぞれの選択肢は同じ結果をもたらす。今日の快楽主義的・エゴティズム的な社会において真の価値が失われていると嘆く批評家は、完全に核心を見落としている。エゴティスト自己愛と本当に対立するのは、公共の〈善〉に考慮する利他主義ではなく、自身の利益を損なわせるような羨望やルサンチマンなのだ。フロイトはこれをわかっていた。死の欲動は、現実の原理ではなく快楽の原理にも対立している。すなわち、真の〈悪〉(=死の欲動)は自己破壊を含み、自身の利益を妨害する方向に行動を引き起こすのだ。……〈死の欲動〉と名づけられているものは、合理的な快楽の追求という恒常的な仕組みを乱すものであり、ここで自らの利益を妨害するという奇妙な反転が起きているのだ。それこそが真の悪であるならば、今日の世俗的で実践的な倫理論だけではなく、脳科学における〈心の機械化〉でさえ、〈悪〉に対する〈防御〉として理解されるべきではないだろうか。
 人間の欲望が孕んでいる問題は、ラカンが言ったように、常に主体の属格と客体の属格の双方における〈他者の欲望〉である。〈他者〉への欲望、〈他者〉の欲望の対象になりたい欲望、そしてとりわけ、〈他者〉の欲望の対象への欲望。羨望とルサンチマンは、こうして人間の欲望の構成要素だといえる。アウグスティヌスは早くも熟知していた。ラカンが頻繁に引用している、母親の乳を飲む弟を妬む幼児についての『告白』の一節を思い出してほしい。「わたし自身、幼児がねたむのを見て、知っている。その幼児は、まだものを言うことさえできないのに、自分の乳兄弟を、あお白い顔で、うらめしそうにながめていた」。
 この考察を基礎に、デュピュイはジョン・ロールズが唱えた正義の理論に対する、説得力のある批評を展開している。公正な社会に関するロールズ・モデルによれば、社会的不平等は自然的な差異に根ざす限りにおいて許容される。功労に基づくのではなく偶然的な要素として受け入れられるのだ。ロールズが見誤っているのは、そうした社会では制御不能なルサンチマンの爆発をもたらす条件が整ってしまうだろうという点である。そこでは、私は自己の低い立場が全面的に〈正当化〉されていることを思い知っており、失敗を社会的な不正のせいにすることができないだろう。ロールズはこうして恐ろしいモデルを提案している。自然的な特性によってヒエラルキーが直接的に正当化されている社会だ。そこでは、善意の魔女に選択の機会を与えられたスロヴェニアの農民を扱う逸話からも明らかな、ある教訓が抜け落ちている。彼に牛を一頭与えたうえで隣人に二頭を与えるか、彼から一頭を奪ったうえで隣人から二頭を奪うかという選択肢を与えられた農夫は、瞬時に後者を選択する(さらにおぞましいバージョンにおいて、魔女は彼に告げる。「あなたのために何でもしてあげますが、ただし隣人にはそれを二度、してあげますよ」。農夫は、狡賢い笑いを浮かべながら答える。「私の目を一つえぐり取って下さい」)。」
(スラヴォイ・ジジェク「パリ暴動と関連事項にまつわる、物議を醸す考察」)
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