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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<正しく生きる

「二人のあいだで長い会話が交わされているのをコニーはよく聞きつけた。というよりは多く話しているのはボルトン夫人のほうだった。テヴァーシャル村のうわさ話を、ボルトン夫人はクリフォードにとめどもなく注ぎこむのだった。それはただのうわさ話以上のものだった。……一度しゃべりだすと、村の生活のことを述べるボルトン夫人の話はいかなる作品よりもすぐれていた。彼らのことすべてに、立ち入ったことにまで、委曲にわたって、奇妙な熱烈な興味を抱いていたのだ。彼女の話に聞き入るのは、すこし品の悪いことだったけれども、実に面白かった。はじめはいわゆる《テヴァーシャル物語》を、ボルトン夫人はクリフォードにしたがらなかった。しかし、一度始まるともうとどまるところがなかった。クリフォードは《材料》がよく見つかるので、そのために聴いていたのである。彼の天才といわれているところはこういうものだったことをコニーは知った。つまりそれは、人間のうわさ話についての、理解の届いた、そして一見したところ無関心に見える明晰な判断の才能なのだった。もちろんボルトン夫人は《テヴァーシャル物語》をするときはとても夢中になっていた。そして村で起こった事件も面白かったが、彼女がそれを知っているというのも不思議なことだった。彼女の話を書いたら何ダースもの書物になったであろう。
 ボルトン夫人の話は、コニーにもとてもおもしろかった。だがあとになって、きまって恥ずかしい思いをした。ああいう熱狂的な好奇心をもって聞くべき話ではなかったと思うのだった。要するに、あらゆる人間が心から同情するような、苦悩に満ちた、打ちひしがれたものにたいする尊敬の念と、細やかな心づかいをもっていてはじめて、ほかの人間のもっとも私的な事情を聞くのが許されるのである。というのは諷刺ですら同情の一形態であるからだ。われわれの人生が何であるかを本当に決定するものは、他人にたいするわれわれの同情心の満干の仕方にある。そしてそこにこそ、正しく書かれた小説というものの重要さがあるのだ。それはわれわれの同情の念を、新しい領域に気づかせたり、そこに導いていったりするとともに、まただめになったものにたいしてわれわれの同情を引っ込めさせたりするのである。それゆえ小説というものは正しく用いられた場合、人生の最も内密な部分を表現することができる。というのは、敏感な知覚が満干して洗い清めるのが必要とされるのは、なによりも人生の愛情に関した秘密な部分においてであるからだ。
 しかし小説はうわさ話と同じことで、人間心理にたいして機械的であり破壊的でもある、偽の同情や反感をそそることがある。腐敗した感情でも、それが因習的に「純粋」なものとされていたりすると、小説というものは、ひどく腐敗した感情をも美化し去ることがある。そういう小説はうわさ話と同様、堕落したものとなる。そしてまたうわさ話と同様、外面的には天使の側に与しているがために、いっそう堕落したものとなる。」
(D.H.ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』)
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