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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<時間の関節が外れている

「ドストエフスキーの創作原理は、ある種の同時性において「矛盾や循環が渦巻く『場』」(「『罪と罰』についてII」)、いわば諸関係全てが不可分に衝突し共存し続ける全体的な世界であって、単一の個体がそのなかで他者と和解する有機的な時間の継起ではない。たとえ小林〔秀雄〕がこの差異を定式化していないとしても、『白痴』のプランの問題の分析が結果的に示すのはそれである。すなわち小林によれば、ドストエフスキーは一方で、この小説を『罪と罰』のいわば続編、そのエピローグが示す「人が次第に新しくなって行く物語、次第に更正して行く物語、一つの世界から他の世界へと次第に移って行く物語」(スヴィドリガイロフ的な人物が「自殺を選ばず、次第に更正し、遂に新しい現実を知ることは可能であるか」という問いへの解答)として構想するのだが、他方で「プランの渦」の灼熱的な混乱がこの構想の不可能性をも容赦なく暴露してしまう[*5]。この視点が「『白痴』についてII」だけでの思い付きではないのは、それ以前のノートでの無数の直観的断定からもわかる。そこでは、ある継起的な時間における複数の事件を個体の成熟の媒介的契機としてヘーゲル主義的に階型化する試みの一切がこの作家の「書くこと」とは永久に背反せざるを得ないこと、この事実が性急で苛立たしげにだが執拗に指摘されている。「『罪と罰』はトルストイの言いたい意味では決して復活の物語ではない」(「『白痴』についてI」)、「『白痴』は『罪と罰』を遡行したものだ、飛び越えたものではない」(同上)、「彼は絶望のうちに真の再生があると信じたのではない。再生を予期している絶望などというものはあり得ない」(「『悪霊』について」)、「幾時何処で昨夜が終り、今朝が来ていたか、誰も言う事は出来まい」(「『罪と罰』についてII」)。

[*5]ドストエフスキーのこのプランは(『カラマーゾフの兄弟』の続編とされる「偉大な罪人の生涯」のプランについてもいえるが)発想自体としては何も新しいものではなく、小説のゲーテ的なパラダイム、すなわち主体が試煉や経験の媒介を通して自己形成を続ける教養小説のジャンルに内属している。批評理論の側では、ルカーチが小林やバフチン以前にその意識的な体系化を完了していたのであり、彼はプラトン的な回想に(またそれを通しての個体と世界との和解に)小説の叙事性を確保する構成原理を見いだす。「時間は(略)統一する同質性の原理であり、すべて異質な断片の表面を磨き、そのそれぞれを(略)一つの関係に引き入れる。時間は人間たちの無計画な混乱に秩序を与え、それにおのずから花開く有機体のみかけをあたえる(略)回想のうちにおぼろげに浮かび上がる、しかも体験されたものとしての、個性と世界の統一は、その主観的、本質規定的な、その客観的、反省的な本質的特性において、小説形式によって要求された、全体性を成就するもっとも深遠な、もっとも正しい手段なのだ」(『小説の理論』)。無論この「全体性の成就」こそドストエフスキーの小説が拒絶するものであり、小説がルカーチの定義通りのものなら、この作家の小説は小説ではない。前者が考察を逆説的に正確な修辞で結語するのはそのためだ、「ドストエフスキーはいかなる小説も書かなかった」(同上)。」
(鎌田哲哉「「ドストエフスキー・ノート」の諸問題──小林秀雄における言葉の分裂的な共存についての試論」)
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