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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<詩の毒

「実際、私は詩を訳する時、それをまず暗誦しようと試みる。暗誦できない詩、暗誦していると不快感が起こる詩、あるいは何かどこかで“つかえ”を感じる詩には、私の深層構造をミーティング・プレイスとして提供できない。原詩と、やがて生まれるであろう訳詩のための、私の言語、正確には「プレ言語」とでもいうべきものであろうが、そういうものとは出会えないということである。そういう詩は訳せない。深層構造とか何とか、しちむつかしいことを言ったが、そのテストはあっけないほど簡単である。私にとっては暗誦に耐えるかどうかである。
 …………
 徹底的に暗誦すればよいかというと、どうもそこまでは行かないほうがよいらしい。私は十六歳か十七歳の時、翻訳する廻り合わせになるなどゆめ思わずにヴァレリーの「海辺の墓地」を暗誦してしまった。六十歳近くになってさて翻訳に取りかかった時、私の訳の歩みは完成した形の原文に先回りされてしまって何度も立ち止まった。訳文はできかけては雲散霧消した。しょせん原詩の美と完成度に敵うわけがない。どうもある程度の覚え間違いと覚え残しがあるぐらいでないと、訳詩過程に必要な日本語の最適語を選ぶための自由な言語空間が閉ざされて失われてしまうようだ。心理学には「本の内容を記憶し活用するためには完全に読み切らないで未読の部分をごく一部でも残しておくのがよい」という実験的事実があるが、それとどこか関連している事柄ではなかろうか。
 また、読めば読むほどよいかというと、これにも限度がある。文章というものにはすべて、一定時間内にある程度以上の回数を反復して読書すると「意味飽和」という心理現象が起こる。つまり、いかにすばらしい詩も散文もしらじらしい無意味・無感動の音の列になってしまう。これはむしろ生理学的現象である。音楽で早く知られた現象である。詩というものは一定時間内には有限の回数しか読めない。つまり詩との出会いはいくらかは一期一会である。それだけではない。無意味化するよりも先に、その詩人の毒のようなものが読む者の中に溜まってきて、耐えられなくなる。ヴァレリー詩の翻訳の際に、彼のフランス語の「イディオシンクラシー」(医学でいえばまさに体質的特異性!)が私の中で煮詰まってきて、生理的な不快感となった時期があった。彼の詩を英詩やイタリア詩あるいはボードレール詩に関連づけようと比較文学研究の真似事をしたのは、この不快感を中和するためであったとは後から気づいたことである。」
(中井久夫「訳詩の生理学」)
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