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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<軽蔑=恋愛

「内的媒介に特有な隠蔽への要求は、性的領域において特に嘆かわしい結果をもたらす。主体の欲望が対象としているのは媒体の肉体である。したがって媒体は対象の絶対的な主人である。媒体は自分の気まぐれな気分次第で肉体をまかせたり拒んだりすることができる。もしこの媒体もまた自発的に欲望することができないならば、こうした気まぐれの方向を予測することは困難ではない。主体が所有したいという自分の欲望を見せさえすれば、媒体はすぐさまその欲望を写しとるだろう。媒体は彼女自身の肉体を欲望するであろう。別な言葉で言えば、媒体は、肉体を奪いとられることが自分にとって耐えがたい恥辱のように思われるようなある価値を、肉体に賦与するであろう。媒体が主体の欲望を写しとらないとしても、媒体はその欲望には答えることがないであろう。本体論的病いの犠牲者は、実際、自分自身をあまりにもさげすんでいるので、自分を欲望する存在を軽蔑しない訳にはいかないのだ。性的な領域においても、他のあらゆる領域におけるのと同様、二重の媒介は「自己」と「他者」との間のあらゆる相互性を排除するのだ。
 性的欲望に溺れることは、恋する男にとって常に恐るべき結果をもたらす。彼は、無関心をよそおうことによってしか自分が恋する女の欲望を自分の方に引きよせることができない。だが彼には、恋する女の肉体へと彼をかりたてる激情をおさえつけることによってしか、別な言葉で言えば、愛の欲望における現実的で具体的なものをおさえつけることによってしか、自分の欲望を隠蔽することができないのだ。
 …………
 打算家のジュリヤン・ソレルと『アルマンス』の性的不能者の主人公オクターヴ・ド・マリヴェールとは、恐らくは、ただ一人の同じ人物でしかない。欲望を圧迫する禁止は、愛される女が何らかの理由で自分を愛する男を見たり彼の愛撫を感ずることのできない時にしか、取り除かれないのだ。恋する男は、自分自身の欲望の屈辱的な姿を、愛する女に見せることを恐れるよりほかに方法はない。ジュリヤンは、マチルドが自分の腕の中にやっと落ちこんだ時、彼女の意識をどんなになくしてしまいたかったことだろう。《ああ、こんなに青ざめたこのほっぺたに、お前の気づかぬように、思うぞんぶん接吻がしてやれたらなあ!》……
 …………
 性欲は実存全体の鏡である。性の呪縛はいたるところにあるのに、これまで口に出されて言われたことがない。それは、ある時は《超脱》を気どりたがるし、ある時は《社会参加》だとふれまわろうとする。麻痺患者が自分が動かないのは自ら選んでのことだと言いはるのと同じだ。……主人公は、媒体の視線によってすっかり麻痺させられて、その視線からのがれようと思う。こうなったが最後、彼ののぞみのすべては、見られることなく見ることだけだ。これこそが、すでにプルーストやドストエフスキーであれほど重要視され、いわゆる《ヌーヴォー・ロマン》という現代の小説でなおいっそう重要なものとなったのぞき見する男の主題なのだ。」
(ルネ・ジラール『欲望の現象学』)
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