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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<恋愛=原罪

「一般に恋愛論が成立するためには、恋愛とそれ以外の人間的諸価値との間に、ある緊張・葛藤の関係が存在せねばならず、しかもその関係が社会的な文化形態として成立していなければならない。これは、およそなんらかの価値(恋愛が一定の価値行為であることはいうまでもない)に関する人間の思索の根本条件となるものであって、すべてのものがある最高の価値的存在から流出してきたり、もしくはすべてのものがそのまま汎神論風に価値化されたりしている場合には、本来的な哲学や思想は生まれないし、逆にその必要もない。恋愛がもし、ありとある生物のひたすらに自然ないとなみであるにすぎないならば、そこではその行動の価値化の必要やそれにともなう他の価値との葛藤は生じない。
 この点をもっともよく示すためには、ヨーロッパ的な恋愛論の基本にある「アダムとイヴ」の神話を考えればよいだろう。そこに示されているものは、人間の自然な衝動によってひきおこされた「楽園追放」──堕罪の観念であり、人類の歴史をその最後の瞬間にいたるまで支配するであろう「原罪」の理念である。そこでは、アダムとイヴという原初のカップルをとらえた、ある曖昧な好奇心と衝動が、全人類の歴史理念を決定するものとして提示されている。これはほとんど理不尽ともいうべき理念であるが、しかし、ヨーロッパにおける恋愛論の究極の根拠はそこにあったとぼくは考えたい。いいかえれば、ヨーロッパ文明における恋愛は、「神」による人間の楽園追放と「恩寵」による人間の救済との幕間に行なわれるある付随的なドラマとしてあらわれている。もっとかんたんにいえば、人は恋愛の中に神の恩寵と復讐という二重のドラマを感じとっている、といえよう。ヨーロッパにおいて、恋愛と「天国」もしくは「地獄」の観念とが切りはなせないイメージをともなってあらわれることが多いのはそのためであろう。こういう考え方は日本には存在しなかった。恋愛がある罪の意識をともなうこと、もしくは、少なくともそれが人間的・社会的諸価値との間に原理的な分裂をはらむということは、それほど意識されることはなかったといえよう。」
(橋川文三「『葉隠』と『わだつみ』」)
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