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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<見ろ

「物に近づきそれを掴み取るすべを知るためには、たとえそれがどんなふうに神経機構のなかで行われるのか知らなくても、見るだけで十分である。私の動きうる身体は見える世界を当てにし、見える世界の一部をなしており、だからこそ、私は自分の身体を見えるもののなかでうまく操ることができる。しかし他方、視覚が運動に依拠しているというのも本当である。人に見えるのは、その人が眼差しを向けているものだけである。もしも眼の動きを一切欠いていたとしたら、視覚はいったいどうなっていただろうか。そしてまた、もしも眼の動きそのものがたんなる反射であったり盲目的であったりすれば、もしも眼の動きがアンテナをともなっておらず、先見力〔としての視覚〕をもっていなかったならば、もしも視覚が眼の動きのなかで先に生じていなかったならば、眼の動きはただ物たち〔の見え〕を混乱させるだけではなかっただろうか。私のどんな移動も原理上私の風景の一隅に現れ、見えるものの地図のなかに転記される。私が見ているものはすべて原理上私の届くところに、少なくとも、私の眼差しの届くところにあり、「私が〜できる」という地図のうえに書き留められている。この二つの地図はそれぞれ完全なものである。見える世界と、私が動くことで関わっていく世界とは、同じ《存在》の〔二つの〕全体的部分なのである。
 この不思議な重なり合いに注意が向けられることはあまりないが、この重なり合いは、視覚のことを、精神の面前に世界の絵や表象を立ち上げる思考の操作、〔すなわち〕内在と観念性の世界を立ち上げる思考の操作として考えることを禁ずる。見る者の身体はそれ自身見えるものなのだから、その身体によって、見る者は見えるもののうちに埋め込まれているのであり、〔それゆえ〕見る者は、自分が見ているものを我が物にするのではなく、ただ眼差しによって見ているものに近づくだけであって、見る者は世界に面し、世界に向かって開かれているのである。他方、見る者がその一部をなしている世界の方も、即自や物質であるわけではない。私の運動は、延長のなかに奇跡的に実現される場所の変化を、主観という隠れ家の奥底から布告するような精神の決意、絶対的作為ではない。私の運動は視覚から自然に生じてきた結果であり、視覚の成熟なのである。物については、物は動かされる、と私は言うが、私の身体は自分を動くのであり、私の運動は自分を展開する、と言う。私の身体は自分について無知でなく、自分に対して盲目的でなく、自分から放射するのである……」
(メルロ=ポンティ『眼と精神』)
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