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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<見られろ

「見えるもの、動きうるものとして、私の身体は物の仲間であり、物の一つであり、世界という織物のうちに編み込まれているのであって、〔それゆえ〕身体の統合とは一個の物の統合である。しかし他方、私の身体は見、動く〔自分を動かす〕のだから、自分の周りにぐるりと物をつなぎとめており、それらの物の方はと言えば、私の身体の付属器官であり延長部分であり、身体の肉のなかに嵌め込まれ、身体の十全な定義の一部をなしているのであって、〔それゆえ〕世界は身体と同じ生地で仕立てられているのである。こうした逆転し矛盾した言い方は、視覚が物に取り巻かれ、そのただなかで生起するということを言い表すためのものであり、まさにそうした物のただなかにおいてこそ、ある見えるものが見ることをはじめ、あらゆる物を見ることによって自分にとって見えるものとなるのであって、そこでは、まるで結晶における母液のように、感じる者と感じられるものはずっと不可分のままなのである。
 この内面性は人間身体の物質的配置に先立つものではないが、かといって物質的配置から生じてくるものでもない。もしも私たちの両眼が自分の身体のどの部分も視野に入ってこないようにできていたとしたら、あるいは、もしも意地悪い仕組みで物には自由に手を伸ばすことができるのに自分の身体には触ことができないようになっていたとしたら──あるいはたんに、もしもある種の動物たちのように、私たちも、顔の横に眼があって両眼の視野が重なることがないとすれば──、自分を振り返ることのないこの身体が自分を感じることはないだろうし、完全には肉でないような、ほとんどダイヤモンドのようなこの身体は、人間の身体ではなく、したがって、人間性というものもないだろう。けれども、人間性とは私たちの関節構造や眼の配置による結果として生み出されたものではない(ましてや鏡の存在によってでもない。たとえ私たちに自分の身体全体を見えるものにしてくれるのは鏡だけであるにしても)。こうした偶発事やそれに類した他の事態がなければたしかに人間は存在しないだろうが、かといって、それらをたんに足し合わせても一個の人間が存在するようになるわけではない。身体の諸部分を一つ一つ寄せ集めたからといって身体が生きて動くようになるわけではないし──それにまた、自動人形〔としての身体〕のなかにどこか他から精神が降りてくることによって、身体が生きて動くようになるというわけでもない。というのも、そのように精神が降りてくるという考え方もまた、身体それ自身には内部も「自分」もないということを前提としてしまっているからである。人間の身体が〔まさしく人間の身体として〕そこにあるのは、見る者と見えるもの、触れる者と触れられるもの、片方の眼と他方の眼、手と手のあいだである種の交叉が起こり、〈感じ-感じられうるもの〉に火花が散り火が灯ったときであって、その火は、偶然的出来事だけでは十分に作りえなかったものを、身体に起こる偶然的出来事が壊してしまうまで燃え続けるのである。」
(メルロ=ポンティ『眼と精神』)
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