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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<感情的な真実2

「「でもそれはわれわれの関知しないことだ……」とまた事務官が意見をのべかけた……
「まあ、まあ、まったくそのとおりです。でもぼくにも一言いわせてください」とラスコーリニコフは事務官のほうへは見向きもせずに、ニコージム・フォミッチの顔へ目を向けたまま、せきこんで言った。彼は同時になんとかしてイリヤ・ペトローヴィチの注意もひきたいと思ったが、相手はかたくなに書類をしらべるようなふりをして、頭から黙殺しかかっていた。「ぼくの立場からも釈明させてください。ぼくはあの下宿にはもう三年越し住んでるんですよ。田舎から出てくるとすぐからです。そしてまえに……まえに……まあぼくだって、すっかり言ってしまっていけないことはないでしょう。あそこに住むとすぐ、ぼくはおかみの娘と結婚することを約束したのです。口約束ですから、別にどうっていうことはありませんがね……かなりいい娘でしたよ……まあ、好きにさえなりましたよ。といっても惚れこんだわけじゃありませんがね……一口に言えば、若さというやつですよ。こんなことを言いだしたのは、あの頃おかみがぼくにたくさんの金を貸してくれて、ぼくはまあのんきな生活をしていたってことを、言いたかったのですよ……ぼくはまったく軽薄でした……」
「そんなのろけ話をせいとは、誰もきみに言ってやしないよ、それに暇もない」とイリヤ・ペトローヴィチはぞんざいに、勝ち誇ったようにさえぎろうとしたが、ラスコーリニコフは勢いこんでそれをおしとどめた。しかし彼は急にしゃべるのがひどく億劫になってしまった。
「でも、お願いです。どうかぼくに、すこしでも、まあ一通りしゃべらせてください……事情がどうであったか、そして……ぼくとしても……こんなことをしゃべるのは、おっしゃるとおり、余計なこととは思いますが、でも、──一年前にその娘はチブスで死にました。しかしぼくはそれまでどおり下宿人としてのこりました。おかみさんはいまの住居に移ると、ぼくに言いました……しかも心からやさしく言ったのです……わたしはあなたをすっかり信用しています……それはそれとして、これまであなたにお貸しした分、百十五ルーブリの借用書を入れてはいただけまいか、とこう言ったのです。まあ聞いてください、それからおかみさんは、ぼくが借用書をわたすとその場で、これからもまたいくらでもお貸ししますわ、わたしとしては決して、決して、あなたが払ってくれるまで、この証書をたてにとるようなことはしませんから、とたしかに言いました。これはおかみさんが言ったそのままの言葉です…… それがいまになって、ぼくが家庭教師のくちを失い、食べるに困っているのに、こんな支払い要求を訴えるなんて……いったいぼくはどう言ったらいいのです?」
「そういう感傷的なこまかい事情はだね、きみ、われわれには関係のないことだよ」とイリヤ・ペトローヴィチは尊大にさえぎった。「きみは返答をあたえ、義務の履行を誓えばそれでよろしい。きみが惚れられたとか、どうしたとかそんな涙っぽい話には、われわれはぜんぜん用がない」
「もういい、きみはどうも……酷すぎるよ……」ニコージム・フォミッチは卓について、やはり書類に署名をしはじめながら、呟くように言った。なんとなく気がさしたのである。
「書きなさい」と事務官がラスコーリニコフに言った。
「何を書くのです?」ラスコーリニコフはどういうのかことさらに乱暴に聞きかえした。
「わたしが口授します」
 ラスコーリニコフには、事務官がいまの打ち明け話をきいてからいっそうぞんざいで、さげすむような態度になったように思われた。──ところが、おかしなことに、──彼自身にとっては、思いがけなく、誰がどんなことを思おうがまったくどうでもよくなった。しかもこの変化はなんと一瞬の間に、あっという間に起ったのである。もしも彼がちょっとでも考える気になったら、もちろん、つい一分まえによくも彼らにあんな話をしたり、おまけに自分の感情を無理におしつけようとしたりなどできたものだと、われながらあきれたにちがいない。それにしても、どうしてあんな気持になったのだろう? いまはそれどころか、この部屋が不意に警察官たちではなく、もっとも親しい友人たちでいっぱいになったとしても、彼らに対して人間的な言葉を一言も見つけることができなかったろう。一瞬のうちにそれほどまでに彼の心は空虚になったのである。苦しい果てしない孤独と疎遠の暗い感情が不意にはっきりと彼の心にあらわれた。彼の心の向きをこれほど不意に変えたのは、イリヤ・ペトローヴィチに対する告白の卑屈さでもなければ、彼に対する警部の勝利感の低劣さでもなかった。とんでもない、いまの彼にとっては自分の卑劣さなど何であろう、名誉心だとか、警部だとか、ドイツ女だとか、徴収だとか、警察だとか、そんなものが何であろう! よしんばいまこの瞬間火刑を宣告されたとしても、彼はぴくりともしなかったろう、それどころかそんな宣告にろくすっぽ耳もかさなかったにちがいない。彼の内部には何かしら彼のまったく知らない、新しい、思いがけぬ、これまで一度もなかったものが生れかけていたのである。彼はそれを理解したわけではなかったが、はっきりと感じていた。感覚のすべての力ではっきりとつかみとっていた、──彼はもう二度とあんな感傷的な告白はもちろんのこと、およそどんなことであろうと、警察署のあんな連中に打ち明けたりはしないであろう。それどころかたとえそれが警察署の警部どもではなく、彼と血を分けあった兄弟や姉妹たちであっても、生涯のどんな場合にも、彼には打ち明ける理由はまったくないのだ。彼はこの瞬間までこのような奇妙な恐ろしい感覚を一度も経験したことがなかった。そして何よりも苦しかったのは──それが意識や理解ではなく、むしろ感覚だったことである。直感、これまでの人生で経験したあらゆる感覚のうちでもっとも苦しい感覚であった。
 事務官はこういうケースにおきまりの返答の形式を口述しはじめた、つまりいま支払うことはできないが、某月某日までに(あるいはいずれそのうちに)支払うことを約束する。当市をはなれない。財産を売却も、贈与もしない等々。
「おや、あなたは書くこともできませんな、ペンが手からこぼれおちそうですよ」と事務官は好奇心をそそられてじろじろラスコーリニコフを見ながら、注意をあたえた。「身体ぐあいがよくないのですか?」
「え……めまいがして……先をつづけてください!」
「それで結構です。署名してください」
 事務官はその書類を受けとると、ほかのしごとにとりかかった。」
(ドストエフスキー『罪と罰』)
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