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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<Re: 総合、それでもなお

「視覚メディアは、その「表象コンテクスト」が理解されていなければ、おそらく幻視にひとしいものになろう。ここで「表象コンテクスト」について詳細に論ずる余裕はないが、一例を挙げるなら、それはメディア固有の「時間性」においてもっとも顕著となるだろう。そして少なくとも視覚メディアにおいおては、「時間性」は「運動性」に一致する。
 視覚メディアの、そのすべての画面に、固有の「運動性」が刻み込まれている。コミックの一コマにも、コミック固有の「運動性」がある。写真漫画の試みが、けっしてコミックの等価物たりえず、かえってリアリティを遠ざけてしまうのは、写真固有の「運動性」がコミックという形式と齟齬をきたしてしまうためである。
 …………
 こうした「表象コンテクスト」をひとたび意識するなら、映画におけるCG表現が成功しにくい理由の一端も明らかになるだろう。CGアニメーションのなめらかな動きは「運動の死」にほかならない。そこには変形する無時間があるだけだ。CGが実写の引用によらずに自律的表現の領域を確保するまでには、いましばらく他領域への従属に甘んじなければならないだろう。
 さて、さまざまな視覚メディアが、その「表象コンテクスト」の固有性をもっとも主張しうるのは、その運動性においてであった。……アニメがリアルでありうるとすれば、それは写実的な背景や映画的手法の模倣によってではなく、アニメ固有の運動性を獲得しえたときに違いない。もしそれが可能なら、一本の線で描かれた人物が、実写にひとしいリアルな動きを見せることだってできる。アニメの夢とは、つまりはそういうことではなかったか。
 視覚メディアにおける表現は、その固有の「表象コンテクスト」に忠実に従う場合に限り、十分なリアリティを確保しうる。そのさい鍵を握っているのが、この運動性の十分な理解にほかならないだろう。
 宮崎〔駿〕がこうした「表象コンテクスト」について、いかに意識的であったかは、彼の「日本のアニメーションについて」という文章に端的に示されている。いくつかの発言を引こう。
《(セルアニメについて)相当いい加減な絵もセルにすると何とかさまになり、よい絵はセルになると薄められ力を失ってしまう。要するに、良いも悪いも中間にひきよせてしまうのだ》
《(アニメーションにおける演技の困難さにふれて)演技とは単なる動きなのではなく、かすかな光と影の変化、セルでは表現しようもない質感、乾湿、一秒の二十四分の一よりもっと速い、連続する兆しの動態によって成り立っている》
 彼がアニメ作家としてひきうけた不自由と困難は察するに余りあるが、その経緯はまた、彼が独自に掴み出してきた技法の価値を保証するものでもあるだろう。
 ところで、ここで述べていることは、そっくり「アニメ批評」の手法にも転用可能ではないだろうか。批評にもリアリティが要請される以上、それは独自のリズムによって展開されなければならない。アニメ批評に現代思想を接ぎ木する試みがしばしば失敗に見えるのは、思想の枠組みがこのリズムを破壊してしまうためだ。「思想」は必然的にオブジェクト・レヴェル、すなわち設定とキャラクターへの固着をうながし、そのことがアニメの運動性を直接的に殺してしまう。」
(斎藤環「「運動」の倫理 あるいは表象コンテクスト試論」)
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