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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<総合、それでもなお

「近代科学革命がおこなったことは、運動を、もはや特権的な諸瞬間に連関させるということではなく、むしろ任意の瞬間に連関させるということであった。もとより運動を再合成するにはちがいないのだが、ひとびとは、運動を、もはや、形相という超越的なエレメント(ポーズ)からではなく、内在的な物質的エレメント(切断箇所)から再合成していた。ひとびとは、運動について、もはや〔古代ギリシア哲学における〕理性的に把握されうる総合はおこなわず、かえって、或る感性的な〔たとえばグラフや座標系で表現できるような〕総合を遂行していたのである。そのようなわけで、近代天文学は、ひとつの軌道と、それの通過にかかる時間との関係を規定することによって成立し(ケプラー)、近代物理学は、物体が通過する距離と物体が落下する時間を関係させることによって成立し(ガリレオ)、近代幾何学は、平面曲線の方程式を導出することによって、すなわち一本の動く直線の道筋の任意の瞬間におけるその直線上の一点の位置を求めることによって成立し(デカルト)、最後に言うなら、微積分学は、限りなく接近させうる二つの切断箇所の考察を思いついたことによって成立した(ニュートンとライプニッツ)。どの分野でも、任意の瞬間の機械的な継起が、ポーズの〔古代ギリシア哲学における〕弁証法的秩序に取って代わっていた。「近代科学は、とりわけ、時間を独立変数とみなそうとする熱望によって定義されなければならない」。
 映画は、まさにベルクソンによって取り出された以上のような系統の末子であるように思われる。……映画の前史が問題になるとき、混乱した考え方にでくわすことがある。というのも、映画を特徴づける技術の系統をどこまで遡って考えればよいのか、またそれをどのように定義すればよいのかについて、意見が分かれているからである。そうした系統を考えるとき、影絵や、もっとも古い映写システムを引き合いに出すことはつねに可能である。しかし、実際には、映画の決定的な諸条件は、以下の通りである。【1】たんなる写真ではなく、むしろ瞬間写真〔スナップショット〕(ポーズをつけた人や物の写真は別の系統に属する)。【2】瞬間写真どうしの等しい距離。【3】「フィルム」を構成する素材へのそのような等しい距離の転写(写真用のフィルムに小穴をあけたのは、エジソンとディクソンである)。【4】いくつものイメージ〔コマ〕を牽引するメカニズム(リュミエールによるツメ)。以上の意味で、映画は、連続しているという印象を与えるように選ばれた任意の瞬間に即して、すなわち等距離の諸瞬間に即して、運動を再現するシステムである。以上とはまったく別の或るシステムがある。それは、一方のポーズが他方のポーズのなかに移るように、つまり一連のポーズが「変換される」ようにそれらのポーズを映写してゆくことによって、運動を再現すると言えそうなシステムであるが、それは映画とは無縁である。以上のことは、アニメを定義しようとすればよくわかる。アニメがまったく映画の側にあるのは、アニメが、もはやポーズや完了した形態を構成することはないからである。しかも、アニメにおいては、〔デカルト幾何学に見られるような〕線や点が動いてゆくはずの道筋の任意の諸瞬間において捉えられたかぎりでのその線や点の運動によって、つねにできあがりつつある形態あるいはつねに壊れつつある形態が描写されるからである。アニメは或る種のデカルト幾何学を指し示しており、決してユークリッド幾何学を指し示すことはない。アニメがわたしたちに提示するものは、ひとつのユニークな瞬間において描写された形態ではなく、かえって、形態を描写する運動の連続性である。
 しかしながら、映画は、或るいくつかの特権的な瞬間を糧にして身を養っているように見える。よく言われることだが、エイゼンシュテインは、或るいくつかの運動あるいは発展から、彼がとりわけ映画の対象としている或る種の危機の瞬間を引き出している。それはまさに、彼が「パトス的」と呼んだものである。たとえば、彼は、或るいくつかの突撃と叫びを選択して、それらのシーンを絶頂の状態にまで推し進め、それらを互いに衝突しあうようにさせている。だが、こう言ったからといって、先ほど述べたことの反論をおこなっているわけではまったくない。そこで、映画の前史に、それも馬のギャロップの有名な例に戻ってみよう。ギャロップ〔における足の運び〕を正確に分解〔して記録〕することができたのは、マレイがおこなった同一画面上の連続的記録によってであり、また、マイブリッジがおこなった〔並列された複数のカメラによる〕等距離の瞬間写真〔スナップ・ショット〕によってである。まさにそれらが、有機的に組織された足の運びの総体を、任意の一点に連関させる。等距離をうまく選ぼうとすれば、目を向けるのは、どうしても特別な時間でなければならない。すなわち、馬が、足を一本地につけ、それから三本つけ、二本つけ、三本つけ、一本つける瞬間でなければならない。それを、特権的な瞬間と呼ぶことはできる。だが、古代的な形式で〔古代ギリシア哲学における形相として〕ギャロップを特徴づけている一般的なポーズあるいは姿勢の意味では、決してそう呼ぶことはできない。そうした瞬間は、もはや、ポーズとは何の関わりもないし、形式からしてさえ、ポーズであることは不可能だろう。その瞬間が特権的な瞬間であるのは、それが、運動に属する特別な点つまり特異点という意味でのことであって、超越的な形相が現働化する瞬間という意味でのことではない。概念の意味が、まったく変わってしまったのだ。エイゼンシュテインの特権的な瞬間であろうと、彼とはまったく異なる映画作家の特権的な瞬間であろうと、いずれもやはり任意の瞬間である。端的に言って、任意の瞬間は、正則か特異かの、つまり通常か特別かのいずれかでありうる。エイゼンシュテインが特別な瞬間を選択しているからといって、彼がその瞬間を運動の内在的分析から引き出していることには変わりはないのであって、それを〔古代ギリシア哲学における運動の形相的な〕超越的総合から引き出しているのではまったくないのである。特別な瞬間つまり特異な瞬間は、やはり数々の任意の瞬間のなかのひとつである。……エイゼンシュテイン自身はこう明言している──「パトス的なもの」の前提には「有機的なもの」があり、これは切断が入るべきもろもろの任意の瞬間からなる有機的に組織された総体である。
 任意の瞬間は、別の任意の瞬間から等しい距離を置いた瞬間である。したがって、わたしたちは、映画をつぎのようなシステムとして定義しよう──すなわち、運動を任意の瞬間に連関させることによって再現するシステム。しかし、まさにそこで、再び難しい問題が現れる。つまり、そのようなシステムにはどのような利益があるのだろうかということだ。さて、科学の観点からすれば、利益はたいへん薄い。なぜなら、近代科学革命は、分析に関するものであったからだ。そして、ひとびとは、一方では運動を分析するためにその運動を任意の瞬間に連関させることが必要であったとしても、他方ではそれと同じ原理にもとづく〔運動の〕総合あるいは再構成には、確認という曖昧な利益を別にすれば、どのような利益があるのかよくわからなかったからである。そういうわけで、マレイもリュミエールも、映画の発明をたいして信用していなかった。……
 けれども、同時代人たちは、諸芸術を突き動かすひとつの進化に敏感でありえた。そして、この進化は、絵画においてさえ、運動をあり方を変化させた。いわんや、ダンス、バレエ、パントマイムは、フィギュアとポーズを放棄しないわけにはいかなかった。こうして、それらは、運動を任意の瞬間に連関させるところの、ポーズをとらないことの価値、さらには律動的ではないことの価値を解放した。そこから、ダンス、バレエ、パントマイムは、環境の偶発事に対応できる行動になった。すなわち、ひとつの空間の諸点の振り分けや、ひとつの出来事の諸瞬間の振り分けに対応できる行動になった。以上のことはすべて、映画を巻き添えにした。」
(ジル・ドゥルーズ「運動に関する諸テーゼ──第一のベルグソン注釈」)
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