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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<他者のいない世界

「他者に対するこんにちのリベラルな寛容さ、他者性の尊重とその全面的な受け入れ──これときわだった対照をみせるのが、ハラスメントに対する強迫的な恐れである。つまり、〈他者〉が問題なしとされるのは、その実在がうっとうしおくないかぎりにおいて、この〈他者〉が実際には他者でないかぎりにおいて……である。前章でふれた下剤チョコレートの逆説構造〔チョコレートは便秘の原因になる〕とまったく同様に、寛容はその反対と一致するのだ。〈他者〉に対する寛容というわたしの義務は、実のところ、わたしは〈他者〉に近づきすぎてはいけない、〈他者〉の生活域に侵入してはならない、ということを意味する。いいかえれば、わたしは、わたしの接近過剰に対する〈他者〉の不寛容を尊重しなければならないのだ。後期資本主義において中心的人権として現れてきているのは、ハラスメントを受けない権利である。これは他者とのあいだに安全な距離をたもつ権利である。
 ポスト政治的な生-政治には、二つの対立するイデオロギー空間に属しているようにしかみえない二つの側面がある。ひとつは、人間を「むき出しの生」に還元すること。すなわち、専門的管理の知の対照でありながら、グアンタナモの囚人やホロコーストの犠牲者のようにあらゆる権利から排除された、いわゆる聖なる存在、ホモ・サケルに還元することである。もうひとつは、傷つきやすい〈他者〉に対する尊敬である。これは、自己を傷つきやすいもの、多種多様な潜在的「ハラスメント」につねにさらされたものとして経験するナルシシスティックな主体の態度を通じて極端なまでに推し進められる。〈他者〉の傷つきやすさへの配慮と、〈他者〉を行政上の知によって規定されるたんなる「むき出しの生」へと還元すること。この対照性以上に明確な対照性があるだろうか。しかし、それにもかかわらず、この二つの立場が単一の根から発生するとしたら、どうだろうか。これら二つの側面の根底に、まったく同一の態度が存在しているとしたら? この二つの側面が、対立物の同一性を断定するヘーゲル的な「無限定判断」の、こんにち的な例と呼んでみたいもののなかで一致するとしたら? この二つの対極的姿勢がその根底において共有するのは、まさに、それらよりも高次元にある大義の拒否、すなわち、われわれの生の究極目標は生そのものである〔それより高次の目的はない〕という考え方である。傷つきやすい〈他者〉への配慮と、個人をホモ・サケルとして扱う究極の表現である拷問を正当化する姿勢とのあいだに矛盾がないのは、そのためである。」
(スラヴォイ・ジジェク「汝の隣人を汝のように恐れよ!」)
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