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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<行動のための倫理

「まさしくスピノザには「生」の哲学がある。文字どおりそれはこの私たちを生から切り離すいっさいのものを、私たちの意識の制約や錯覚と結びついて生に敵対するいっさいの超越的価値を告発しているからである。私たちの生は、善悪、功罪や、罪とその購いといった概念によって毒されている。生を毒するもの、それは憎しみであり、この憎しみが反転して自己のうえに向けられた罪責感である。一連の悲しみの受動的感情がかたちづくる恐るべき連鎖のあとを、一歩一歩スピノザはたどってゆく。まず悲しみそれ自体、ついで憎しみ、反撥、嘲り、恐れ、絶望、良心の呵責、憐れみ、敵意、妬み、卑下、失意、自卑、恥辱、未練、怒り、復讐心、残忍……。その徹底した分析は、希望のうちにさえ、安堵のうちにさえ、それを隷属的感情とするにたる悲しみの種子が含まれていることをえぐりだしてみせる。真の国家〔共同社会〕は国民に、褒賞への希望や財産の安全よりも、自由への愛を提供するものなのだ。なぜなら「善行の褒賞は自由人に対してではなく、隷属者に対してこそ与えられるからである」。スピノザは、悲しみの受動的感情にはよいところもあると考えるひとびとには属していない。彼はニーチェに先立って、生に対するいっさいの歪曲を、生をその名のもとにおとしめるいっさいの価値観念を告発したのだった。私たちは生きていない。生を送ってはいてもそれはかたちだけで、死をまぬがれることばかり考えている。生をあげて私たちは、死を礼賛しているにすぎないのだと。
 悲しみの受動的感情に対するこうした批判は、深く触発=変様の理論に根ざしている。一個の個体は、まずひとつの個的・特異的な本質、すなわちひとつの力能の度〔強度〕である。この本質にはその個体特有の一定の構成関係が対応し、この力能の度にはその個体がとりうる一定の変様能力が対応している。この構成関係は〔外延的〕諸部分を包摂し、この変様能力はその個体が触発に応じてとるもろもろの変様によって必然的に満たされる。こうして、たとえば動物の場合も、類や種といった抽象的な概念によるよりはむしろ、それら個々の動物のもつ変様能力によって、それらが触発に応じてどのような変様をとげることが「できる」か、その持てる力能の限界内でどのような刺激に対して反応するか、によって定義されることになる。類や種による〔超越的規範にもとづく〕とらえ方には、まだ「道徳的」な視点が含まれているのに対して、『エチカ』(Ethique)とはまさにエトロジー〔ethologie 生態学〕であり、これは、どんな場合にもただ触発に対する変様能力から人間や動物をとらえようとする考え方に立つのである。ところで、まさにこの人間についてのエトロジーの観点から、二種類の変様がまず区別されなければならない。能動と受動である。能動とは、触発をとおして変様するその当の個体の本質に由来する変様であり、受動とは〔その個体と出会う〕他のものから説明さえるような、外部に由来する変様である。したがってその個体のもつ変様能力も、それがそうした能動的変様によって満たされると考えられるかぎりは、みずからにはたらく力能として、またそれが受動的変様によって満たされると考えられるかぎりは、はたらきを受ける力能〔受動の力能、感応力〕として現れてくる。……
 ……いずれにせよこの受動の特性は、それが、この私たちを私たち自身の活動力能から切り離し、私たちをこの力能から離れさせたままで、私たちの変様能力を満たすところにある。けれども、私たちが自身の体と適合・一致をみない外部の物体や身体と(すなわちその構成関係が私たちのそれとはひとつに組み合わさらないような体と)出会ったときには、すべては、いわばその相手の体の力能がこの私たちの力能に敵対し、これに対してマイナスや固定化にはたらくかたちで進行する。すなわちこの場合、私たちの活動力能は減少するか阻害されるのであり、これに対応する受動〔受動的情動〕が悲しみの感情である。それとは逆に、私たちが自身の本性と適合・一致をみる体と出会い、その構成関係が私たちのそれとひとつに組み合わさるときは、いわば相手の体の力能がこの私たち自身の力能にプラスされるかたちとなる。そうした変様を私たちに引き起こす受動、これが喜びの感情であり、この場合には私たちの活動力能は増大するか促進されるのである。この喜びも、外部にその原因をもつ以上はまだ受動の域を出るわけではない。私たちはまだ、みずからの〔能動的な〕活動力能から切り離されたままにとどまり、この力能を形相的に所有しているわけではない。しかし、それでもこの活動力能がそれにともなって増大することに変わりはない。ここに私たちは一歩、転回点に──ついに私たちがそのあるじとなり、真に能動〔みずからの活動〕の名、能動的な喜びの名に値するものに変わるだろう質転換の起こる地点に──「近づく」のである。
 こうした触発=変様の全理論をとおして、悲しみの受動〔受動的感情〕とは何であるかがわかってくる。それがどんなたちをとり、どんな理由にもとづくものであろうと、悲しみの受動は私たちの力能の最も低い度合を表している。私たちが最大限にみずからの能動的な活動力能から切り離された状態、最大限に自己疎外され、迷信的妄想や圧制者のまやかしにとらえらえれた状態である。『エチカ』〔生態の倫理〕は必然的に喜びの倫理でなければならない。喜びしか意味をもたないし、喜びしか残らないからだ。」
(ジル・ドゥルーズ「道徳と生態の倫理のちがいについて」)
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