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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<悪の感染症

「つまりスピノザは、悪はなにものでもないとする古典的なテーゼに、ある特殊な意味を与えたのだった。というのは、どんな場合にも、そこには複合・合一をとげる構成関係が必ずある(たとえば毒物と(その毒と複合をとげて)血液の諸部分がはいってゆくあらたな構成関係とのあいだでみられるように)からである。ただ、自然の秩序に従って複合・合一をとげる構成関係は、必ずしもある特定の構成関係の保存と一致するとはかぎらないというだけのことだ。その特定の構成関係は分解されてしまうことも、いいかえればもはや〔現実的諸部分によって〕具現されなくなってしまうこともありうる。まさにその意味において(それ自体としての悪)は存在せず、わるいもの(私にとってよくないもの)があるというにすぎない。「人間の身体の各部分が相互にもつ一定の運動と静止の構成関係を保たせるもの、これはいい。反対に人間身体の各部分が別の運動と静止の関係を相互にもつようにさせるもの、これはわるい」。その構成関係が私自身のそれとひとつに組み合わさるような(適合)すべてのものは〈いい〉といわれ、その構成関係が私自身のそれを分解してしまうような(不適合)すべてのものは〈わるい〉といわれることになろう。
 そしてたぶん、もっと細かくみれば、状況はさらに複雑をきわめていよう。第一にまず、私たちは多数の構成関係をもって成り立っており、したがってひとつの同じ対象がある構成関係のもとでは私たちに適合し、他の構成関係のもとでは私たちに適合しないことも起こりうる。それからまた、こうした私たちの構成関係はどれも、それそのものが一定の許容しうる変化の幅をもっており、幼年期から年とって死ぬまでのあいだには相当に変化する。さらにまた、病気やその他の事情によってそうした構成関係が大きく変容し、はたしてそれがそのまま同じ個人であるのかどうか考えさせられてしまうようなことも起こりうる。その意味では、身体が屍と化すのを待たずに死者となる場合もあるということだ。最後にまた、そういった変容はその変容した私たち自身の部分が残りの部分に対して、それを裏切り崩壊させてしまうようないわば毒としてふるまうこともありうる(ある種の病気や、極端な場合には自殺の際にはそのようなことも起こる)。」
(ジル・ドゥルーズ「悪についての手紙」)
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