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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<記憶の傷みのない不幸

「少したつと太陽が雲を追いやり、青空が現れた。今日もまたこれまでと変わらない快晴になるだろう。アナベルの母親は辛そうに立ち上がった。「少し休んでおいた方がいいわね……」と声の震えを抑えながら言った。兄も両腕を力なく垂らしたまま立ち上がり、自動人形のように母親に従った。ミシェルは頭を振って、一緒に行かないことを示した。少しも疲れを感じなかった。しばらくのあいだ、彼がとりわけ感じていたのは観察可能な世界の不思議な存在感だった。……病棟はあまりに静かだった。ときおり遠くで扉が開き、看護婦が出てきて別の廊下に入っていった。高台の下からは町のざわめきがごくかすかに聞えてきた。周囲から完全に切り離された精神状態で、彼はこれまでのなりゆきを振り返り、いかなる段階を経て自分たちの人生が破壊されたのか、そのメカニズムを考えてみた。すべてはどうしようもなく、澄明かつ反論の余地なきものであるように思われた。すべては限定された過去の明証性を帯びてびくともしないように思われた。今日では、十七歳の娘がこれほどのナイーブさを示すことはありそうもない。とりわけ今日では、十七歳の娘が恋愛にこれほどの重要さを認めることはありそうもない。アナベルの少女時代から二十五年の月日が流れ、アンケート調査や雑誌の記事を信じるならば、事態はずいぶん変わったらしい。今日の少女たちはもっと思慮深く、合理主義的だった。何よりもまず学校でいい成績を得ることを考え、ちゃんとした職業につくことを目指している。男の子とのデートは暇つぶしにすぎず、性的な喜びと自己愛の満足がほぼ同等に入り混じったお遊びにすぎない。のちに彼女たちは、社会的・職業的立場が釣り合い、趣味嗜好に何らかの共通性がある相手と、熟慮の上で婚姻を取り決めようとする。もちろんそうすることで、幸福になる可能性はきっぱり捨ててしまうわけだが──何しろ幸福とは、理性にもとづく実利的慣習とは両立しえない、融合的・退行的な状態と切り離せないものだから──、しかし前の世代の女たちを責めさいなんだ感情的、精神的な苦悶からは免れることができるものと期待しているのである。とはいえこの期待はたちまちのうちに裏切られた。情熱の苦しみが消え失せた後に残ったのは、倦怠、空虚感、そして老いと死に対する恐怖に満ちた思いばかりだった。こうして、アナベルの人生の後半は前半よりもはるかに悲しく陰気なものだった。最後には、思い出さえ残らなかったのである。
 正午ころ、ミシェルは病室の扉を押した。彼女の息づかいはひどく弱々しく、胸元のシーツはほとんど上下しなかった──医者によればそれでも組織の酸素化には十分だというのだが。呼吸がこれ以上弱まったなら、補助呼吸装置を取りつけることも考えられた。今のところは、肘の少し上に点滴の針が刺され、こめかみに電極が固定されているだけだった。真っ白いシーツを陽光が照らし、明るい色の美しい髪の毛を輝かせた。目を閉じた顔は、普段より少し青白いだけで、非常に穏やかに見えた。いかなる恐れからも解放されたかのようだった。ミシェルにとって、これほど幸せそうな彼女を見るのは初めてだった。彼に昏睡状態と幸福とを同一視しがちなところがあるのは確かだった。とはいえ、彼女の姿はきわめて幸福そうに見えた。ミシェルは彼女の髪を撫で、額と生暖かい唇にくちづけした。それはもはや明らかに遅すぎた。とはいうものの、それはやはり甘美なことだった。」
(ミシェル・ウエルベック『素粒子』)
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