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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<主語のない世界

「俳優が演じる際にどういう仕草をするのかは、もちろん演技において大問題なわけだが、では、俳優は何をどこまで決定しておくべきなのだろうか? この単語を発する時にはこのポーズをする、この台詞の時にはこう動く、ということをあらかじめ決めておくことにはある種の危険がつきまとう。(posted at 11:07:10)
本来、私たちが日常で会話をする際にはその時にどんな動作/仕草をするか、ということはあらかじめ決められたものではない。その場で、即興的に動いている。かといって発話と無関係の動作/仕草になってしまうわけではない。(posted at 11:08:57)
時には発話されている単語と関係ない動きを私たちはするが、かえってそれは発話する人間の無意識や、心理状態に密接に関わっている動きだったりもする。台詞から考えるのではなく、台詞までを考える、ということをいつもいってきたが、身体の動きなんて決められるものではないのではないか。(posted at 11:11:27)
身体は常に精神を裏切るものだし、我々の想定を越えたところにある。落ち着こうと思っても足の震えが止まらないことがあったり、赤面しないぞと思えば思うほど赤面してしまったり、尿意や便意、生理なんてものも、精神を裏切ってくる身体の振る舞いだ。(posted at 11:13:23)
身体はいつも自分のものであると同時に自分のものではない、という二重性の中にある。私たちは机やリモコンを直接的に動かすことはできないが、腕や指を動かすことはできる。だから、自分の身体はある意味で確かに自分のコントロール下にあると言える。(posted at 11:15:34)
が、机やリモコンが精神と関係のないある物体として空間の中に存在しているのと同じように、自分の身体も物体として空間の中に存在していることもまた事実だ。(posted at 11:16:56)
自分が世界に対して関わろうとするとき、身体はふたつの意味でその関わりを手助けしてくれる。ひとつには、自分の能動的な活動がある。リモコンのボタンを押す、という「意思」を具体的に物理的にしてくれるのが身体だ。身体は世界に対して、自分を拡張するための道具となってくれる。(posted at 11:19:32)
もうひとつには、世界からの信号を受け取るための受信機として、感覚器官としての身体は私たちが世界に関わることを手助けしてくれる。見て、聞いて、触れて、味わって、嗅いで、私たちは世界を感じ取る。演じることは、受信機であり発信機である身体を舞台上に置く、ということでもある。(posted at 11:22:31)
舞台上は、もちろん物理的な制約を受けるある一定の空間である。そこにも重力はあるし、温度はある。舞台上が氷点下であればストーリーに関わりなく身体は震えてしまうかもしれない。と同時に、舞台上は、その作品の内部の状況を表しているフィクショナルな空間でもある。(posted at 11:24:21)
だから舞台上の空間も二重化されている。2017年に『人形の家』を上演すれば、この日本の、現代の、この空間であると同時に、『人形の家』の劇空間がそこに二重化されて存在しているわけで、俳優は、身体をそこに置く。(posted at 11:25:59)
演じる、という行為は俳優個人の頭の中で完結するものではないし、完結すべきものでもない。だから、俳優はあらかじめ動作/仕草を決定しておくべきではない。舞台上がどんな空間であるのかを、二重の意味で関知して、その空間にいかに自分の身体を配置するべきかを考えなければいけない。(posted at 11:28:11)
もちろん行き当たりばったりで良い演技ができるはずもない。だが、すべてが決定された精神状態で何らかの行為を予定通り遂行することは、ますます良い演技とは関係がない。その意味で、演じることは体操やフィギュアスケートとは違う。予め想定された理想の行為を、完璧に遂行することは演技ではない。(posted at 11:31:03)
俳優はその場面の状況を知らなければいけないし、役柄の持つ目的を把握していなければならない。役柄の持つ、欲望と恐れと、近づきたいものと遠ざかりたいものを知らなければいけない。が、それと同時に、その空間に身体を置いた時にどんな反応が起きるのかを「知らない」ことが大切なのではないか。(posted at 11:33:41)
ある空間に、ある身体が置かれた時、どんな反応をするのかを私たちは知り尽くす必要はない。冬に野外劇を上演すれば身体は物語と関係なく震えるかもしれない。それは物語上の必然性とは関係ないが、その空間において、身体が正しく反応した結果に他ならない。(posted at 11:35:41)
俳優は、その状況、その空間に置かれた身体が、どのように反応したがるのか、ということに注意を払う必要がある。自分が、その空間で、その状況で、何をしたがるのか、何を避けたがるのか、事後的に感じ取る必要がある。「反応」は予定されるべきものではなく、その場で自ずから発生するものだ。(posted at 11:38:12)
だから俳優が優れた動作/仕草を行うためには、自宅でテキストと向き合った結果として想像されたそれを越える必要がある。つまり稽古場、共演者も舞台装置も含むその空間、において、自分の身体が何をしたがるのかを試してみて、身体の反応を発見しなければいけない。(posted at 11:44:08)
自分の身体が自分を裏切って反応する瞬間をこそ、しっかりと捉えておく必要がある。だから演じることは、徹底的に状況について、目的について考えた上で、何かを投げ出すような行為なのだと思う。その空間に身体を置いてみるとは、未確定な何かへ向けて受信機/発信機である身体を投げ出すことだ。(posted at 11:46:00)」
(広田淳一@binirock「Twilog - 2017年01月16日(月)」)
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