忍者ブログ

Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<千のナイフ

「それから僕は灰色の夕暮れの中を走っていた 雨の匂いと湿った暖かい空気が解き放ったあらゆる花の香りがただよい コオロギがリリリリと草むらで鳴いて 僕を先導するように僕のまわりだけ鳴き声が静まる小さな円が移動していった ……僕は走って丘を降りていくあいだ コオロギが静まる無音の円に囲まれて ちょうど鏡に息を吐きながら動くと白い曇りが移動していくみたいだった 彼女は川の中に横たわって頭を川面の砂だまりに載せ 腰のまわりを水が流れていた 川面にはまだ少し光が残って 半分水にひたったスカートが彼女の脇腹で水に合わせて揺らめき ゆっくり波を打ちながらどこへ行くこともできないので みずからの動きによって新たな波を作り出すばかりだった 僕は土手の上に立った 開閉柵に巻きついたスイカズラの匂いをかぐことができた スイカズラとコオロギの鳴き声が 肌にさわる霧になって空気に満ちているようだった
 ベンジーはまだ泣いてるの
 知らない 泣いてるさ 知らないよ
 かわいそうなベンジー
 僕は土手にすわり 草は少し湿っていて それで靴が濡れていることに気づき
 水から出てこいよ 気でも違ったのか
 でも彼女は動かないままで 白くぼんやりした彼女の顔は ぼんやりした砂との境い目を髪に縁どられて
 ほら 出てこいよ
 彼女はからだを起こし それから立ち上がり スカートがからだに当たりながら揺らめき 水をしたたらせて 彼女は土手を上り 服が揺らめき それからすわって
 水を絞ったらいいじゃないか 風邪をひきたいのか
 そうね
 川の水は砂だまりに吸い込まれては 出口でゴボゴボと音を立て 暗がりの中 ヤナギの木々のあいだを流れて浅瀬を渡っていき 川は布切れにシワが寄るようなさざ波を立て 水がいつもそうなるように まだわずかな光をとどめて
 あの人は世界中の海を全部渡ったことがあるの
 それから彼女はあいつのことを話し 濡れた膝をかかえ 顔をうしろに傾け 灰色の光の中 スイカズラの匂いが立ち込め お母さんの部屋に明かりがついていて ベンジーの部屋にも ティー・ピーがベンジーを寝かしつけているらしく
 おまえ あいつを愛しているのか
 彼女の手が伸びてきて 僕が動かないでいると 彼女の手は僕の腕をまさぐりおりて手を取ると 自分の胸にぴたりと押しつけ 胸の鼓動が伝わり
 ううん 愛してない
 じゃあ無理にさせたんだな あいつがおまえに無理にさせたんだな 許させたんだな あいつはおまえよりも強いから だからあいつ 僕はあしたあいつを殺してやるぞ 絶対殺してやるとも お父さんには言わないでおこう あとになるまでね そうなったらおまえと僕は 誰にも言わないでおこうね 僕の学費を持っていけばいいんだ 入学許可は取り消せるんだから キャディ おまえはあいつを憎んでるんだよね そうだろう
 彼女は僕の手を自分の胸につけ 鼓動が伝わり 僕はむきなおって彼女の腕をつかんで
 キャディ おまえはあいつを憎んでるんだよね
 彼女は僕の手をずらして喉に当て 鼓動はそこで僕の手を打ちつづけ
 かわいそうなクエンティン
 彼女は顔を空に向け 空はとても低く 夜のすべての匂いと音とがぎゅっと押しつめられたようで たるんだテントの下にいるみたいで とくにスイカズラが 僕の息にもはいり込むし 彼女の顔や喉にも絵の具を塗ったようにただよって 彼女の血が僕の手をドクドクと打ち 僕はもう片ほうの腕に寄りかかっていたけど その腕が引きつってピクピク動きはじめ その濃密な灰色のスイカズラから 僕はすこしでも息を吸い込もうとあえがなければならなくて
 そうよ あの人を憎んでる あの人のせいで あたし死ぬんだわ もう死んでるの こんなことがあるたびに あたしはあの人のせいで何度も何度も死ぬのよ
 手をあげてみると 手のひらにでたらめに刺さった小枝や草が まだひりひりと食い込んでくる感じで
 かわいそうなクエンティン
 彼女はからだをうしろに傾けて両腕で支え それから彼女の両手が膝をかかえ込んで
 あなたはあれをしたことがないのね
 なにを なにをしたことだい
 あれよ あたしがしちゃった あたしがしたこと
 したさ したさ 何度もいろんな女の子とね
 すると僕は泣いていて 彼女の手がまた僕にふれ 僕は彼女の濡れたブラウスに顔をつけて泣き それから彼女はあおむけに倒れ 僕の頭のむこうの空を見あげ 僕は彼女の虹彩の下に白いへりがあるのが見え 僕はナイフを開いて
 お祖母ちゃんが死んだ日に おまえがズロースをはいたまま川の中にすわり込んじゃったことを覚えてるかい
 ええ
 僕はナイフの先を彼女の喉に当てて
 ほんの一秒もかからないよ ただの一秒もね それから僕は自分のをやればいい 僕はあとから自分のを切るから
 いいわ あなた自分で自分の喉を切れるの
 切れるさ 刃がたっぷり長いから ベンジーはもうベッドにはいったころだな
 ええ
 ほんの一秒もかからないよ 痛くないようにするさ
 いいわ
 目をつぶらないの
 ええ こうしたほうが 強く突かなくちゃいけないでしょ
 そこにさわってごらん
 でも彼女はじっとして 彼女の目は大きく開いて 僕の頭のむこうの空を見あげ
 キャディ ズロースが泥だらけだったから おまえがディルシーにさんざん叱られたことを覚えてるかい
 泣かないで
 泣いてなんかいないよ キャディ
 突いて やる気がないの
 やって欲しいのかい
 ええ 突いて
 そこにさわってごらん
 泣かないで かわいそうなクエンティン」
(フォークナー『響きと怒り』)
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
trounoir
性別:
非公開

P R