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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<信じなければ読むことはできない

「われわれがここで論じている真理は、「客観的」真理ではない。それは、みずからの主体的立場についての自己関係的な真理である。そのようなものとして、それは、関与的な真理であって、それの評価の基準は、事実にかんする正確さではない。それは、発話の主体的立場への作用のしかたによって評価される。ラカンは、「見せかけではないと思われるディスクール」をあつかったセミナール十八で、精神分析における解釈の真理について、簡潔に定義している。「解釈は、イエスかノーかで決定するような真理によって検証をうけることはない。それは、真理それ自体をときはなつ。だれかが、それを本当によりどころとしてはじめて、解釈は真理になる。」……分析家の解釈の「試金石」は、それが患者のうちでときはなつ真理-効果である。これはまた、マルクスのフォイエルバッハ・テーゼXIの読みかた(再読のしかた)でもある。マルクス主義理論の「試金石」は、それが受け手(プロレタリア)のなかでときはなつ真理-効果、受け手の革命的主体への変換ということでの真理-効果である。
 「見なければ、信じることはできない」というきまり文句は、いつでも、それを転倒したもの、つまり「信じなければ、見ることはできない」といっしょに読む必要がある。この二つのパースペクティヴ──理性を欠いた信じることの教条主義と予期せぬことに開かれていること──は、対立するものととらえたくなるが、そうであっても、二番目の言いまわしのうちに存在する真理を主張すべきである。真理は、知に対立するものとして、バディウの〈出来事〉に似ている。それを見ることができるのは、関与しているまなざし、「それを信じている」主体のまなざしだけである。愛を例に見てみよう。愛では、愛する者だけが、愛の対象のうちに例のXを見いだす。Xは、自分の愛の原因であり、パララックス〔視差効果〕的対象である。この意味で、愛の構造は、バディウの〈出来事〉の構造とまったく同じである。バディウの〈出来事〉も、特定の人間たちにとってだけ実在している。それは、そのうちに自分自身の存在を認める人間である。関与していない客観的傍観者にとっては、〈出来事〉は存在し得ないのである。こうした当事者的な立場を欠いた事態のたんなる記述は、どれほど正確であろうとも、解放的な効果を生みだすことはない──結局のところ、それは、うその重圧をいっそう圧制的にするだけである。」
(スラヴォイ・ジジェク「天にいる邪悪な諸霊」)
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