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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<眼を描いてはならぬ

「しだいに大きくなる絶望に襲われながらも、「ともかく続けなければならない、放棄してはいけない。」そう言って彼は勇気をふるいおこし、くる日もくる日も、鼻の先端から頬を通って頭の背後にいたり、手からのぼって額を経て頭の上からうしろに消える立体の構造を、描いては消し、消してはまた描くのだが、仕事が進めば進むほど画面からは線が消え、線が消えればあとにはほとんど何も残らなくなるのである。描くことは消すことにほかならなかった。なぜなら、実際の顔のなかには一本の線もないからである。「消す勇気をもたなければならない、顔が消滅するのを怖れてはならない。」自分自身にたいして彼はこうくりかえし、それからぼくに向かっては、「いいかね、落胆してはいけないよ、私は全部こわしてしまうから。そうしなければどうしても先に進めない、きみの顔は消滅するだろう、いいかね。」「いいですとも」とやむをえずぼくは答える。「遠慮なくこわしてください、しかし消滅してしまうことはないでしょう。」「そうだ、きみの顔はまたすぐに戻ってくるだろう、前よりも何倍も巨大になって。」そして実際に彼は、努力に努力を重ねて描いたところをまたたくまに消してしまうのである。
「私は十年ばかり前、スイスの故郷の街で道のある風景を描こうとしたことがある。山の中の街で坂道が多いのだが、その道もゆるやかな傾斜でのぼり、その先はくだり坂で、遠景には山が見えた。道がのぼっていってくだりになるところ、眼には見えない向う側のくだり坂、そして山と道とのあいだの空間、それを私は描こうとしてずいぶん努力したが、とうとう描けなかった。いまきみの顔を描いていて、まったく同じ問題にぶつかっているのを感じる。頭は一つの球で、それを描くのはくだり坂を描くのと同じなのだから。」
 また別のときに彼は言った。
「一つの顔を描くのは山と谷が錯綜している風景を描くようなものだ、鼻は無数の岩からできている巨大な山だ。」
 彼をいちばん苦しめたのは鼻だったが、ことにこの立錐体の小さな底辺、つまり鼻孔のある部分の傾斜だった。不幸なことに、彼とぼくとの距離は、鼻孔が見える程度に近かったのである。ほとんど場所のない部分に垂直の奥行を与え、そのうえそこに二つの孔を描かなければならないのだ。何時間も何日もそれにかかずらったあげく彼は言った。「鼻孔を描いてはならないのだ。なぜならそれは孔であり、空虚なのだから。鼻そのものの構築ができれば鼻孔は自然にやってくるにちがいない、その前にありきたりの輪郭を描いてはすべてが嘘になる」と。眼についても同じで、画面の上のぼくの顔にはいつまでも眼が描かれなかった。「眼は顔の中心だ、最もたいせつな部分だ。しかし、これはいちばん最後に描かなければならない。なぜなら、これは中心というよりはむしろ中心に向かう孔だからだ。顔全体の構築が正しくできたら眼は自然にやってくるはずだ。」そう言いながらも時として彼は眼の輪郭を描くことがあり、瞳まで立派に描いてしまうことさえあった。すると画面のなかの顔は急に生気を帯び、非の打ちどころのないみごとな肖像になる。ところがジャコメッティはそういうとき極度に悲観し、「嘘だ、全部嘘だ、眼を描きたいという誘惑に負けて嘘を描いてしまった。」そう言ってせっかくみごとにできた眼を消してしまうのである。
 そんなに見えるがままを描きたいなら写真を利用すればいいではないか、という人がいるかもしれない。しかし写真はけっして真を写しはしないのである。カフェでグラフ誌『パリ・マッチ』の表紙に出ている女優の写真を見ていたジャコメッティは、「これは嘘だ、人間の顔はけっしてこんなふうに見えはしない。」そうつぶやいて万年筆でその写真を修正した。写真の顔は少しばかり細くなり、はるかに立体感をましたのだった。」
(矢内原伊作『ジャコメッティ』)
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