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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<コミュニケーションもどき2

「まったくこの女教師〔=エンゲルハルト嬢〕の熱狂ぶりは目ざましいものだった。ハンス・カストルプはびっくりして彼女の顔を見つめたが、彼女は狼狽しながらも、彼を見返した。それからしばらく、ふたりはひと息入れるために口をつぐんだ。ハンス・カストルプは、食事を続けながら頭の震えを抑えていたが、やがてこういった。
「ところでご主人はどういう方なのです。あのひと〔=ショーシャ夫人〕をほうりっぱなしにしているのですか。まだ一度もここへは見舞いにこないのですか。いったい何をしているひとなのです」
「お役人ですの。ロシアの行政官で、とても辺鄙なダーゲスタンという、ロシアの極東の、コーカサス山脈の向うの県の。ええ、さきほども申しましたように、ここの上でご主人にお目にかかったひとはひとりもありません。あの方がこんどまたここへいおらっしゃってからもう三月になりますけれど」
「すると、あの人はこんどが初めて、というのじゃないのですね」
「ええ、そうです、こんどが三度目です。その間はどこかよそにいらっしゃったのでしょう、ここと同じような。──そうして、逆にあの方のほうからときどきご主人をお訪ねになるのです。しょっちゅうではありませんが、年に一回、しばらくの間いっていらっしゃるようですわ。別居生活とでも申しますのでしょうか、あのひとのほうからご主人をご訪問なさるのです」
「そうでしょうね、あのひとは病気なのですから。……」
「ええ、それはそうですけれど、たいした容態ではないのです。サナトリウムにいっきりで、ご主人と別居していなければならないというほどではないのです。それにはほかの理由がいろいろとあるようですわ。ここのひとたちはそんなふうに想像しております。あの方が、コーカサス山脈を越えた向うのダーゲスタンなどという野蛮で未開な土地にお暮しになるのがおいやだとしても、それももっともなことだと存じますわ。でも少しも主人とごいっしょにお暮しにならないというのは、やはりご主人にも責任があるのではございませんかしらねえ。お名前はフランス式でも、ロシアの役人なのですもの。またロシアの役人というものは、実に野蛮な人種ですわ。いつでしたかそういうひとをひとり見たことがありましたが、赤ら顔に鉄のような色の頬ひげを生やして。……ロシアの役人というものはとても袖の下がきいて、あのウオトカというお酒には眼がありませんの、ブランディのことです。……酢漬の茸を二つ三つとか、キャビアをのせたパンを一切れぐらい、体裁上食べるには食べますが、狙いはそのウオトカのほうで──まるで浴びるように飲むのです。それでいて、それがほんの一杯なのですから呆れます。……」
「あなたは万事そのご主人のせいになさいますが」とハンス・カストルプはいった。「しかしふたりが円満に暮していけないのは、あるいは夫人のほうに原因があるのかもしれませんね。公平にご観察なさったところはどんなものでしょうか。あの夫人の様子をはたから眺めて、それにあのドアを乱暴に締める不作法も考え合わせてみますと。……どうも私には、あの夫人は天使のようには思われません。こう申したからといって、気をわるくなさらないでください。どうも無条件には彼女を信じるわけにはいきません。あなたも少し公平さを欠いていらっしゃるのではないでしょうか。……あの夫人にすっかり夢中になっていらっしゃって、たいへんご贔屓のようでいらっしゃるから。……」
 彼はときにはこんなことを口にした。彼は本来自分に縁のない一種の狡さを発揮して、エンゲルハルト嬢がショーシャ夫人に対して熱中してみせる真意を十分承知の上で、それをわざと誤解して、その場かぎりの何か滑稽なことにすぎないかのように受取ってみせた。そして、自分が自由な立場から傍観的に、冷静でユーモラスな口調で老嬢をからかっているように振舞った。彼がこんなごまかしをしたところで、そこには少しの危険もなかった。彼には自分とぐるになっているエンゲルハルト嬢が、自分の図々しいごまかしに同意するだろうということをよく承知していたからである。
「お早よう」と彼はいった。「よくおやすみになれましたか。きっとあなたの美しいミンカ〔=ショーシャ夫人〕の夢でもごらんになったのでしょうね。……おやおや、あなたは、あのひとの話をすると、すぐお顔を赤くなさる。まったくすっかりやられていらっしゃるのですな。いや、否定なさる必要はありませんよ」
 本当に赤くなった女教師は、茶碗の上に上体を屈めて、左の口の端から囁いた。
「あら、いやですわ、カストルプさん。私を狼狽させようとなさって、そんな当てこすりをおっしゃったりして、いけない方だわ。そんなことをなさると、私たちがあのひとに眼をつけていて、そのことであなたが私の顔を赤くさせておしまいになることが、ここの、みんなにわかってしまうじゃありませんか。……」
 食卓で隣合せに坐ったこのふたりは、実際変ったことをやっていたわけである。ふたりとも、自分たちが二重、三重の嘘をついていることをよく承知していた。ハンス・カストルプのほうは、ショーシャ夫人について話したいばかりに、ショーシャ夫人をだしに使って女教師をからかって、この老嬢とのこういうわるふざけに、不健康で倒錯的な慰めを見いだしていたし、老嬢のほうは、第一には取持ち役を演ずるために、第二には青年を喜ばせようとして、本当に自分でも少しショーシャ夫人が好きになっていたために、そして第三には、青年にからかわれたり赤面させられるのがなんとなく楽しかったから、彼のお相手をしていたのである。こういう事情については、ふたりとも、自分に関しても相手に関しても十分に知っていたし、またそれぞれがそれぞれにその辺の事情を見抜いていることをも心得ていた。実にこみ入った不潔なことだった。こういう複雑で不潔なことには、ハンス・カストルプは嫌悪感を覚える性分で、いまの場合も彼はそれを汚ならしく感じたが、一方また彼はそういう自分自身に対して、ここへはしばらくの間お客としてやってきたのであって、もうすぐ帰るのだというような気休めをいって聞かせて、この濁った泥沼の中をぴしゃぴしゃ音をたてて跳ね回っていた。」
(トーマス・マン『魔の山』)
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