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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<人間未満

「愛するダーリヤ・パヴロヴナ、
 あなたは以前私の《看護婦》になると希望されて、必要となったら呼びによこすようにと私に約束をさせた。私は二日後には発って、もう戻らない。私と同行しますか?
 去年のこと私は、ゲルツェンと同じく、スイスのウリイ州の市民に帰化したが、このことはだれも知らない。そこにはもう小さな家を買っておいた。私にはまだ一万二千ルーブリの金がある。いっしょに出かけて、そこで生涯暮しませんか。私はもうどこへも出ようと思わない。
 そこは非常に寂しい場所で、渓谷です。山が視界と思想をせばめている。きわめて陰鬱なところ。そこにしたのは、小さな家が売りに出ていたから。あなたの気に入らなければ、それを売って別の場所に別の家を買ってもよい。
 私は健康がすぐれないが、幻覚症は向うの空気で癒ると思う。これは肉体的なこと。精神的なことはあなたがすべて知っている。でも、すべてだろうか?
 私は自分の生涯について、いろいろとあなたに物語った。しかし、すべてではない。あなたにさえ、すべてを話すことはしなかった! ついでに言うが、私は妻の死に良心のうえで罪がある。その後、あなたと会う機会がなかったので、いま念のために書く。リザヴェータ・ニコラエヴナに対しても罪がある。だが、このことはあなたも知っている。このことはほとんどあなたの予言したとおりだった。
 あなたは来ないほうがいい。私があなたを呼ぶのは、おそろしく卑劣なことだ。それにあなたが自分の生涯を私といっしょに葬る必要はない。私はあなたがいとしいし、心沈むとき、あなたのそばにいると心地よかった。あなたにだけは、口に出して自分のことを話せた。だからといって、どうということにはならない。あなたは自分を《看護婦》に決めてしまった──これはあなたの言葉です。なんのためにそんな大きな犠牲を払わねばならないのか? とくと考えていただきたいが、あなたを呼ぶ以上、私はあなたを憐れんでいないことになるし、あなたを待っている以上、あなたを尊敬していないことになる。ところが私はあなたを呼び、あなたを待っている。すくなくとも、あなたの返事をぜひにもと望んでいる。さっそくにも出発しないとならないから。そうなれば、私は一人で出発する。
 私はウリイ州からは何も期待していない。私はただ行くだけ。私はわざと陰鬱な場所を選んだわけではない。ロシアには私を引止める何物もない、──ロシアにいても、ほかのどの場所でもそうであるように、私にとってはすべてが無縁だ。もっとも、ロシアで暮すのは、ほかのどこで暮すよりもきらいだったけれど。ところが、そのロシアにおいてさえ、私は何を憎むこともできなかった!
 私はいたるところで自分の力をためした。これはあなたが、《自分を知るため》にと私に勧めてくれたことだ。自分のため、また他に見せるためにそれをためしてみたとき、この力は、これまでの全生涯を通じてそうであったように、限りもないものに思えた。あなたの目の前で、私はあなたの兄の頰打ちを忍んだ。私は皆の前で結婚を告白した。しかし、この力を何に用いるべきなのか──それが私にはついにわからなかったし、またスイスであなたの承認を受け、私がそれを真に受けたにもかかわらず、いまもってわからない。私はいまもって、いや、以前も常にそうだったのだが、善をなしたいという欲望をいだくことができ、そのことに満足感をおぼえる。と並んで悪をなしたいという欲望もいだき、そのことにも満足をおぼえる。しかし、そのどちらの感情も依然として常に底が浅く、かつて非常な力のあったためしがない。私の欲望はあまりに力弱く、みちびく力がない。丸太に乗ってなら河を横切ることができるが、木っぱに乗ってではだめだ。これは、私がなんらかの希望をいだいてウリイへ行くのではないかなどと、あなたが考えないために書いておくことだ。
 私は従来どおりだれを咎めることもしない。私は大きな淫蕩を試み、それに力を消耗しもした。けれど私は淫蕩を好まないし、欲しもしなかった。あなたはこのところ私を注意深く見守っていた。私が、あのいっさいを否定する同志たちをさえ、彼らのもつ希望に対する羨望から、煮えくりかえるような思いで眺めていたことをご存じだろうか? しかし、あなたの心配は杞憂だった。あの連中となんの共通点ももたぬ私が、同志になれるはずもなかったのだ。冷やかしのためにも、また憎悪の気持からも、やはりできなかった。それも自分の滑稽さを恐れたからではなく、──私は滑稽さを恐れたりはしない、──私がなおまともな人間の習性をもっていて、嫌悪感を感じたからである。しかし、彼らに対してより大きな憎悪と羨望をもっていたならば、おそらく、私は彼らと行をともにしたことだろう。そのほうがどれほど私にとって楽なことだったか、私がどれほど思い悩んだか、察してほしい!
 愛する友よ、私が推察したとおりの、やさしく心広い女性よ! おそらくあなたは、私にあらんかぎりの愛を恵み、その美しい心の美しさのありたけを私に注ごうと空想し、その行為によって、ついに私の前に目的を指し示したいと望んでいるのではないだろうか? いや、あなたは用心されるほうがいい。私の愛は、私自身と同様に底浅いものであり、あなたは不幸になる。あなたの兄が私に言ったことだが、自身の大地とのつながりを失った者は、自身の神をも失う。つまり、自身の目的のすべてを失うという。何事につけても際限なく議論することはできるけれど、私の内部から流れ出たものは、なんのおおらかさも、なんらの力ももたないたんなる否定のみでしかなかったのだ。否定すら流れ出なかったと言えよう。いっさいが常に底浅く、生気がない。心広いキリーロフは、思想をもちきれずに、ピストル自殺してしまった。しかし、私の見るところ、彼が心広かったのは、健全な理性を失っていたからだと思う。私はけっして理性を失うことができないし、彼ほどに思想を信ずることもできない。私はそこまで思想に関心をいだくことさえできない。けっして、けっして私はピストル自殺などできはしない!
 私は、自分がいっそ自殺すべきである、いやしい虫けらのようにこの地上から自分を掃き捨てるべきであることを知っている。しかし私は自殺がこわい、なぜなら心の広さを示すことを恐れるからだ。私はそれがまたしても欺瞞であるだろうこと、無限につづく欺瞞の列の最後の欺瞞であるだろうことを知っている。心の広さを演じて見せるためだけに自己をあざむいてみて何になろう? 私の内部には憤怒と羞恥はけっして存在しえないだろう。したがって、絶望も。
 こんなに長く書いたことを許してほしい。いま気がついたのだが、思わずもこうなってしまったのだ。この調子では百ページでも足りないだろうし、十行でも十分だろう。《看護婦に》と呼びかけるだけなら、十行もあれば十分だ。」
(ドストエフスキー『悪霊』)
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