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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<喋るな

「哲学が、認識のための媒介的な手引きとしてでなく、真理の叙述として、みずからの形式の法則を保持しようとするのであれば、哲学は、体系のなかにこの形式を先取りすることにではなく、この己が形式に習熟することにこそ重きをおかねばならない。真なるもののパラフレーズ不可能な本質をしかと念頭においていたどの時代にも、この習熟が、入門教育書において必須課題として与えられていた。この入門教育書は、トラクタート〔一般に、学術的・政治的な論文、また、宗教論争などの小冊子をいう〕というスコラ哲学的な術語で呼ばれてしかるべきである。……トラクタートは、その口調においては、たしかに教授的であるかもしれない。がしかし、その最も奥底の態度からすれば、トラクタートには、教理とはちがって、みずからの権威にもとづいて自己貫徹しうるような教示の強制力が、拒まれているのだ。同様にトラクタートは、数学的証明のもつ強制手段も欠いている。トラクタートの規範的な形式においては、教授的というよりもむしろほとんど教育的な意図を示す唯一の要素として、権威をもった引用文が姿を現わすくらいのことだろう。叙述こそ、トラクタートの方法の精華にほかならない。方法とは迂回路なのだ。迂回路としての叙述──これがトラクタートの方法上の性格である。その第一の特徴は、意図の中断なき進行を断念することにある。根気よく、思考はつねに新たに始まり、そのつど廻り道を経て事柄の核心に立ち戻ってゆく。この不断の息継ぎが、観想の最も特有なあり方なのである。というのも観想は、同じひとつの対象を考察しながらさまざまに異なった意味段階を追うことによって、そのたえず新たな始まりの動因と、その断続的なリズムの正当性証明とを受け取るのだ。気まぐれな断片に分かたれていながら、モザイクにはいつまでも尊厳が失われることなく保たれるように、哲学的考察もまた飛躍を恐れはしない。モザイクも哲学的考察も、個別的なもの、そして互いに異なるものが寄り集まって成り来たるのである。超越的な力──聖像のそれであれ、真理のそれであれ──というものを、このことほど強力に教えてくれるものはほかにない。思考細片が基本構想を尺度として直接に測られる度合いが少なければ少ないほど、思考細片の価値はそれだけ決定的なものとなり、そして、モザイクの輝きがガラス溶塊の質に左右されるのと同じように、叙述の輝きは思考細片の価値にかかっている。断片のこまかな細工が造形的な全体また知的な全体という尺度に対してもつ関係に見てとれるのは、真理内実は事象内実の個々の細部のすみずみにまで沈潜していく場合にのみ捉えうる、ということである。……
 …………
 そのような上述に内在する困難さは、まさに、この叙述が独自の散文形式である、ということの証しにほかならない。話す者が声と表情の動きによって、個々の文を──たとえそれらの文自体は持ちこたえることのできぬものである場合でも──支え、そしてそれらの文を寄せ集めて、あたかも大づかみのスケッチを一息に描くかのように、ひとつの、しばしば不安定で漠然とした思考の歩みへとつなぎ合わせてゆくのに対して、書かれたもの(Schrift)に特有なのは、一つの文を起こすそのたびごとに新たに立ち止まってはまた始める、ということである。観想的叙述は、他のいかなる叙述にもまして、この、立ち止まってはまた新たに始めるというリズムに従わなくてはならない。興奮に引き込み熱狂させることは、観想的叙述の目的とするところではない。考察のそれぞれの段階において読者に立ち止まるよう強いる場合にのみ、観想的叙述は己が振舞いに自信をもつことができるのだ。対象が大きければ大きいほど、この考察はそれだけ多く深く中断を含むものとなる。教理の命令的な言葉にまで至らぬところでは、観想的叙述の散文的冷徹さこそが、哲学的研究にふさわしい唯一の書き方であり続ける。」
(ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』)

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