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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<皮膚と内臓2

「おそらく、一八歳のきみは、それまでなまあたたかくつつみこんでいた肉親の庇護という殻から離脱をはかったに違いない。そのとき《マイ・ホーム》などという、へんに大人っぽく、小市民的な感覚は、きみの自意識にとっては、我慢のならない規制だと思えてくる。それは絶縁せねばならない対象となる。
 《街へ!》の呼びかけにこたえて、大都会のアスファルトのうえで、隊列に身を投じて、情念が燃焼するときには、すべての思考が、政治と短絡することによって、あの低徊する肉親の愛とか、《家》の論理とかは、完全にふっきってしまうことが可能になったと思うだろう。また、街頭にうずくまって、むらがりあい、あらゆる世俗的な欲望を放棄し、何の期待もいだかずに放心しているときには、この大都会を埋めつくしているせまい檻にとらわれた核家族などは、唾棄されるだけの存在となるだろう。きみは超越して、あるいは空想のなかで欲望の完全に発散されるユートピアに遊ぶとすれば、そのとき《マイ・ホーム》とはまったく無縁の地点に立っていたかも知れない。しかし、二五歳のきみは、肉体のコミュニケーションの不確実さにハラだちながらも、肉感が実在し、きみの肉体をとりまき、しばりつけるのではないかという予感におそわれる。それは路上や、占拠した校庭の芝生での仮眠の生活のなかでも、やはり、食べ、排泄し、愛しあうことによって、二四時間という一日の各瞬間を埋めていかねばならなかった記憶の蓄積のなかでの、とくに口腔や肛門や性器の感覚とわかちがたく結びついているのである。
 この日常をささえる皮膚化した感覚は、ときには生きるという実感ともなる。そして、《家庭》という公認された安全地帯が、きみのまえに浮びあがる。一組の男女が保護されながら閉ざされた系をつくる。このうたがう余地がないほど社会通念化してしまった領域は、すくなくとも、きみの肉体的な欲望を、限定しながら発散させ、社会的な攪乱をさまたげる安全弁の役割りをする。
 〈食べ〉、〈排泄し〉、〈性交し〉、〈睡眠〉するといった日常的なひとつひとつの行為を、うたがいをもったとしても、やはり確実にひとつずつ過していくことが、きみの日常をかたちづくりはじめるときには、きみは〈ホーム〉にむかいあっているのである。
 しかし、二五歳のきみにとっては、まだ〈日常生活〉の身うごきならぬあまずっぱい体液の充満したけだるさとは無縁であろう。きみの家庭についても、愛しあった二人に捧げられるものだという弁明も当然用意されているはずだ。このとき、きみはいわゆる〈マイ・ホーム〉とは、まだまだ意識のうえでは遠いとはいっても、既に紙一重の位置にいると考えねばならない。
 この〈家庭のなかの日常〉を維持し、成立させているけだるさの意味が、意識的に操作されうるあいだはいいのだが、しばしば、この種のあいまいに充満する気配は、きみに思考停止を強いるのである。
 この瞬間こそが決定的になる。思考停止すると同時に、このけだるい日常という感覚がきみの皮膚をなめつくし、浸透しはじめる。なにはともあれ、この気配の浸透は快感そのものに違いない。胎児のときにたゆたった、胎内の浮遊感覚の記憶がよびさまされる。幼児期に肉親との接触が蓄積した皮膚感覚は、〈家庭〉というシェルターと重なりあって、きみの肉体の細部に記憶の痕跡をとどめる。これらの感覚がよびさまされ、回復するのである。この思考停止によってうみだされる快感の回復は、ついには、状況の正当化をはかり、かつ、状況を維持させはじめる。そのとき、きみは一挙に〈マイ・ホーム〉のなかに埋没し、閉じ込められていく。外界がますます、非人間化した機構の支配にゆだねられはじめていくと、きみはこのあいまいな気配のなかにたゆたい、末梢的な欲望を発散する。〈日常性〉はこのようにして、きみを内部から犯しはじめる。その侵略の拠点をこそ明確にする必要があろう。それは外部の信号を刺激をつうじてうけとっている全感覚である。しかもこの感覚の適当な刺激を持続できるようなシステムのなかに保護されているのである。この保護と維持のシステムこそが、〈マイ・ホーム〉を成立させたといってもいい。とすれば、きみは〈マイ・ホーム〉とむかいあい、そこに充満する〈日常性〉と接触するときに、何よりもまず、君の意識できないような、皮膚感覚、とくに不随意筋の活動部分にこそ、注目せねばならなくなるだろう。」
(磯崎新「きみの母を犯し、父を刺せ」)
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