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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<超克できない近代

「武谷〔三男〕らが、一九五〇年代において、原子力の平和利用という政治の方向性に対して、根本的な批判の論理をもちえなかったことについては、すでに述べた。それは結果として「研究投資をもっともっと増大させて、科学研究をはるかに推し進めるなら、問題の全面的な解決がえらえれる」(広重徹)という札束の誘惑に屈する途をひらいた。「福島」以後にクローズアップされた「原子力ムラ」が、そのようなところから形成されたことは言うまでもない。
 ところで、広重の科学批判は十分に批判たりえているだろうか。そうは言えないところに、反原発の論理の思想的難問がある。
 問題は、広重がア・プリオリに措定しているかに見える「全体」なるものの、ロマン主義的な性格にある。「労働における人間の全体性」とは、もちろん、精神労働と肉体労働の分裂の「止揚」としてイメージされているわけだが、それは、本当に可能なのか。それは単に、精神労働者の疚しさからする美しい妄想ではないか。広重は武谷の要素論(実体論)が暗黙に前提としている全体(本質論)を「形而上学」だと批判するが、広重の方も、真の「全体」なるものを、あらかじめ前提にしているのではないか。
 広重は、武谷の全体が、疎外された「全体」であると言っている。そして、西欧医学が「疎外」してきた「漢方医学」の再評価の例を持ち出して、疎外されていない真の「全体」があるかのように主張しているだけなのである。しかし、これでは核兵器や原発を生み出した近代核物理学が疎外された偽物であると言っているに等しい。しかし、偽であれ何であれ、それらは存在している。
 おそらく、「疎外」は克服されない。「疎外」は、人間の「手」が歩行の手段という「自然」から解放=疎外され、技術が手の代補であり、原発もその技術の連鎖の果てに出現したものである限り、まぬがれることができないものなのだ。原発だけが特権的に危険なわけではなく、プロメテウスが神から盗んで人間に与えたという火が、すでに「危険」なのである。
 それゆえ、農業が危険であれば、自動車も飛行機も危険だろう。それらは、結局、リスクの多寡に還元されてしまう。反原発の思想は、そのことを踏まえて出発しなければならない。そうでない限り、太田竜の言うようにゴキブリ革命こそが自然という「全体」を回復する道である。その意味では、ディープエコロジーの方が正鵠を射ていると言える。」
(スガ秀実『反原発の思想史』)
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