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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<責任すなわち無責任

「《──学生生徒時代に「カンニング」の経験を持ったことのないような人間は、軽蔑に値する、少なくとも積極的評価には値しない、という趣旨の意見を、戦後数年のあるとき、ある人が、某日刊新聞紙上に発表していた。その説を、私は、必ずしも全面的には否定しなかったものの、ほとんど肯定することができなかった。私は、学生生徒時代に「カンニング」の経験を一度も持たなかった人間である。私は、「カンニング」をする必要がなかった。これは、私がいつでも優等の答案を自力で作成し得たということではない。人は(私は)、優等ないし及第点の答案を自力で作成し得ないとき(または自力で作成する気がないとき)には、覚悟していさぎよく悪成績ないし落第を甘受すべきである、と私は、考え信じ、そのとおりに実践して、なかんずく高等学校以後においては悪成績を何回も受け取った(しかし私は、落第したくなかったから、落第しなかった)。私は、自他について「カンニング」実行を尊敬せず、自己についてはそれを嫌悪禁忌し、他者についてもそれを嫌悪軽蔑した。さりとて、「カンニング」の経験を持ったことのあるような人間は軽蔑に値する、少なくとも積極的評価に値しない、とは、私は、必ずしも言わない。
《……不覊奔放の青春学生生活を呼号して教師たちを批判軽視したがっていた高校生連中の誰彼が、いったん点数不足またはサボリのせいでの欠席過多のごとき彼ら本人の責任すなわち無責任によって落第しそうになったら、急に意気消沈したり教師たちに泣きつきに行ったりする図も、私の嫌悪軽蔑に値し、私の潔癖に反した。そんなことなら彼らは、低能でもなんでもないのに落第点を取ったり、病気でもなんでもないのにやたらに欠席したり、するような真似をしないがよかったのである。……また彼らが、日ごろ陰口では、哲学教師や文学教師やの学問的・芸術的才能見識を完全否定軽侮してみせたがっていたくせに、その教師たちの自宅におりおりみずから進んで「遊びに」あるいは「話をしに」出かけたのも、私の潔癖上嫌悪軽蔑に値した。それは、ちょうど新聞社のある人々が、日ごろ陰口では、局長、部長、副部長などを悪しざまにののしったり、上役にたいする下級者の媚びへつらい類を一般的および個別的にさげすんだり、していたくせに、たとえば年末なり年始なりには、局長宅、部長宅、副部長宅などに、ちゃんと歳暮だの年玉だのを持参するとかなんとかして、よろしく立ちまわっていたこととおなじように、私には理解し得ない(または理解しても是認し得ない)現象であった。そんなことなら、せめて彼らは、平素えらそうな陰口を弄ばないがよかったのである。私は、私の中学以降学生生徒時代を通じて、教師と私的・個人的な口を利いたことも、教師の自宅を訪問したことも、かつてまったくなかった(これは、別に尊敬称讃に値する事柄でもあるまい)。
《……学歴詐称というような行為一般にたいする私の性来的な嫌悪軽蔑、言い換えれば私における一種の潔癖は、これを私が一、二の事柄に事寄せて説明するに、おおかた以上のごとくであった。このような潔癖が、あれこれの条件の下では、ただに滑稽、無意味、傍迷惑あるいは他人にたいする思いやりの欠如ともなり得ること、特に敵との対立関係の中では、無思慮、あやまり、自己武装解除あるいは魯迅が否定排斥した類の「フェア・プレイ」ともなり得ることを、新兵私も、まんざら知らなくはなかったのであった。その間の事情をも、私は、その後軍隊生活において、ならびに戦後社会生活において、いっそう深く主体的に理解してきたにちがいなかった。……しかしそれでもなお戦後現在たとえば私は、私が特定の尊重と不満とを抱いているある文学者の短文において、「傍を露骨に刺戟する類の病的潔癖」なる語句をゆくりなくも見つけては、あたかもわが上を諷刺せられたかと、一人相撲のほろ苦い感慨を催さねばならぬのであり、しかもそういう私自身を未だ必ずしも顧みて恥じぬのである。」
(大西巨人『神聖喜劇』)
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