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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<言語がメタメタしてきた

「批評家ジェームズ・ジョンソン・スウィーニーと一九四六年に行った対話で、デュシャンは自分の絵画作品に及ぼされたラフォルグの影響に言及している。「『階段を降りる裸体』の考えは、一九一一年にジュール・ラフォルグの詩『なお、この星に』の挿絵として描いたデッサンから生まれた。……ランボー、ロートレアモンは当時私には古くさく思えた。私はなにかもっと若々しいものが欲しかった。マラルメとラフォルグは私の好みにもっと近かった……」。同じ対話でデュシャンは、ラフォルグの詩には、その題名(たとえばComice agricole)ほど興味をひかれなかったと強調している。この打ち明け話は彼の絵画制作の言語的起源に充分な光を投げかける。彼にとって言語の魅惑は知的な次元のものである。言語は意味作用をつくり出す、と同時にそれをこわすのにもっとも完璧な道具なのだ。言語遊戯は、唯一のフレーズでわれわれが言語の意味作用の力を、一瞬後にそれを完全に無に帰させるといったそれだけの目的で賞揚する、という事実のゆえにすばらしいメカニズムなのである。デュシャンにとって、芸術、あらゆる芸術は唯一の法則に従う、すなわち、メタ・アイロニーは精神自体に内在しているのだ。それは、自分自らの否定を破壊し、それによって肯定になるアイロニーである。マラルメへの言及もやはり偶然ではない。『階段を降りる裸体』と『イジチュール』〔マラルメの哲学的コント〕の間にはわれわれを不安にさせるアナロジーがある。つまり階段を降りて行くこと。女性=機械のゆっくりとした動きの中に、イジチュールが自分の部屋を永久に去り、祖先の地下墓へ通じる階段を一歩一歩降りてゆくあの荘厳な瞬間へのこだまないし応答をどうして見ずにいられようか。どちらの場合にも、断絶と、沈黙の領域へ向かう下降がある。この領域で、孤独な精神は絶対とその仮面、つまり偶然に対決するのだ。」
(オクタビオ・パス『マルセル・デュシャン論』)
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