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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<スパイ小作戦

「おそらくこの「汝何を欲するか」をもっともよく例証しているのが、ヒッチコックの映画『北北西に進路を取れ』の冒頭である。ロシアの秘密諜報局を撹乱するために、CIAはジョージ・カプランという名の、実際には存在しない諜報員をでっちあげ、彼の名を使ってホテルを予約し、彼の名で電話をし、彼の名で航空券を購入する、といった細工をする。すべてはロシアの諜報局に、カプランが実在しているように信じさせるためである。だが実際にはカプランは空無であり、持ち主のない名前である。映画の冒頭で、主人公のロジャー・O・ソーンヒルというごくふつうのアメリカ人がホテルのロビーにいる。そのホテルはロシアのスパイたちに監視されている。カプランなる謎の人物がそのホテルに滞在しているらしいからだ。ホテルのボーイが「カプラン様にお電話です、カプラン様はいらっしゃいますか」といってロビーに入ってくる。ちょうどその瞬間、まったく偶然に、ソーンヒルは母親に電報を打とうと思い、そのボーイに合図する。見張っていたロシアのスパイたちはソーンヒルをカプランだと思い込む。ソーンヒルはホテルを出ようとしたところを、ロシアのスパイに誘拐され、人里離れた別荘に連れていかれ、彼の諜報活動について尋問される。もちろんソーンヒルはそんなことを何一つ知らないが、彼が何も知らないと言っても、嘘をついているのだと見なされる。
 この場面は、現実にはとてもありそうもない偶然にもとづいているのだが、にもかかわらず──こう言ってよければ──心理的に納得がゆく。それはなぜだろうか。それはソーンヒルの置かれた状況が、言語存在としての人間の根本的状況に相応するからだ。主体はつねに、他者にたいして彼を表象するシニフィアンに、縫いつけられ、ピン留めされており、このピン留めを通して、彼には象徴的委託が課せられ、象徴的諸関係の相互主体的ネットワークの中に一定の場所をあたえられる。問題はこの委託が究極的にはつねに恣意的だということである。その委託の性質は遂行的なので、主体の「真の」属性や能力を引き合いに出してそれを説明することはできない。そこで、この委託を課せられた主体は、自動的に、ある種の「汝何を欲するか」、すなわち〈他者〉の問いに直面することになる。〈他者〉は、あたかも、なぜ主体がその委託を課せられているかという問いにたいする答えを主体自身が知っているかのように、主体に問いかける。だが、もちろんこの問いには答えられない。主体は、なぜ自分が象徴的ネットワークの中のこの場所を占めているのかを知らない。〈他者〉の発するこの「汝何を欲するか」という問いにたいする主体自身の答えは、次のようなヒステリー的な問いでしかありえない──「私はなぜ私がそうであるとされているところのものなのか。なぜ私はこの委託を課せられているのか。なぜ私は……〔師、主人、王……あるいはジョージ・カプラン〕なのか」。要するに、「私はなぜ私がそうだとあなた(〈他者〉)の言うところのものなのか」という問いである。
 そして、精神分析の過程が終了する瞬間は、被分析者にとっては、彼がこの問いを捨てるまさにその瞬間、すなわち自分が〈他者〉によって正当化されない存在であることを受け入れる瞬間である。だからこそ精神分析はヒステリーの症候の解釈から始まったのであり、精神分析の「故郷」は女性のヒステリーの経験だったのである。つまるところヒステリーは、まさしく失敗した呼びかけの結果・証拠以外の何物でもない。ヒステリーの問いは、主体が象徴的同一化をまっとうすることができない、象徴的委託をすんなりと全面的に引き受けることができない、という表明以外の何物でもない。……ヒステリーの問いは、「主体の中にあって主体以上のもの」の、すなわち呼びかけ──主体が象徴的ネットワークに従属し、その中に包含されること──に抵抗する主体の中の客体の、ずれを暴露するのである。」
(スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』)
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