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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<冷笑の罠/皮肉の罠

「……ヘーゲルの論点は、二つの逆転が、何らかの形で交換可能であり、それらが同じ論理に従っているということではない。両者の非対称性は、冷笑的姿勢(シニシスム)と皮肉(アイロニー)という対を参照することによってうまく要約することができる。冷笑的姿勢の身振りが、「本物の権威」などというものはポーズであって、その唯一の実行的内容はあられもない強制あるいは物質的利益のための従属であるとしてばかにするのに対し、皮肉家は、功利主義者の冷徹な計算が本当に彼がねらっているものかどうかを疑う──計算した距離と見えるものが、それよりずっと深いところでの関与を隠しているかもしれないと疑うのだ。冷笑家はすぐにいかめしい権威の愚かなうわべを馬鹿にするが、皮肉家はそっけない軽蔑や無関心の装いに実は執着があることを見てとることができる。たとえば恋愛で言えば、冷笑家は、深い精神的な親和性があると言っても、それは相手を性的にだか他の形でだか利用しようとする戦略だと言ってけなすことに長けているのに対し、皮肉家は、相手を乱暴にもてあそんだり、さらには侮辱していても、それはただ自分が奥底で執着していることを認めたがらないということを表しているにすぎないことが多いということを、憂鬱そうに断じる傾向がある……。……
 ……もしかするとこの対は、イデオロギーの概念の根本的な両義性を生成する根本的な行きづまりに対する鍵を提供してくれ、それによってイデオロギーによる手順の反対が、いずれそれ自身も劣らずイデオロギー的だということがわかるかもしれない。冷笑派はイデオロギーというキメラをむきだしの現実に還元し、称揚されるイデオロギーという虚構の現実にある基盤を求めている。それに対し皮肉家は、もしかすると現実そのものが現実ではなく、つねにすでに無意識の幻想によって虚構として構造化し、支配され、規制されているのではないかという疑念を抱く。それぞれの姿勢にはそれぞれの罠がある。冷笑派の罠は、象徴による虚構の仕掛けの外に究極の現実があるという素朴な信念であり、皮肉家の罠はその正反対、つまり現実そのものを虚構に還元してしまうことである──すると我々はこの悪循環をどう断ち切ればいいのだろう。……ラカンは、現実(虚構として構造化される)とまさに象徴化に抵抗するものとしての〈現実界〉との区別を導入することによって、その方法を示している。」
(スラヴォイ・ジジェク『仮想化しきれない残余』)
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