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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<同一化を超えて


 Δ=神話的意図
 S=主体
 A=〈他者〉・大文字の他者
 m=自我
 s(A)=シニフィエ・意味作用
 i(a)=理想自我・想像的同一化
 I(A)=自我理想・象徴的同一化
 d=欲望(空想 /S◇a に支えられた欲望)
 D=(死の)欲動
 Jouissance=享楽
 Castration=去勢
 Signifiant=シニフィアン
 Voix=声
 ……この完成図は二つのレベルに分けられる。そしてそれらを、意味のレベルと享楽のレベルというふうに呼ぶことができよう。最初の(下の)レベルの問題は、シニフィアンの連鎖と神話的意図(Δ)との交叉がいかにして、その内的分節化のすべてとともに、意味の効果を生み出すかということである。〈他者〉の関数であるという点、つまりシニフィアンのバッテリーである〈他者〉の場所に条件づけられるという点における、意味の遡及的性格 s(A)。この意味の遡及的生産にもとづいた主体の想像的同一化 i(a) と象徴的同一化 I(A) 等々。第二の(上の)レベルの問題は、このシニフィアンの秩序、〈他者〉の領域そのものが、享楽の前象徴的(現実的 real)流れによって貫かれ、そこに穴があくときに、何が生じるかということである。つまり、前象徴的「実体」、物質化され具体化された享楽としての身体がシニフィアンのネットワークに編み込まれるときに、何が生じるかということである。
 ……シニフィアンのふるいを通って濾過されることで、身体は去勢を受ける。享楽はそこから排出され、身体は禁欲と分断に服するものとして生き延びる。言い換えれば、シニフィアンの秩序(〈他者〉)と享楽の秩序(その具現化としての〈もの〉)は根本的に異質であり、相矛盾しており、両者の間のいかなる協調も構造的に不可能である。だからこそグラフの上部の左の方に──享楽とシニフィアンとの最初の交点 S(/A) に──は、〈他者〉の欠如の、〈他者〉の矛盾〔一貫性=堅固さの欠如〕の、シニフィアンがあるのだ。シニフィアンの領域は、そこに享楽が突入してくるやいなや、矛盾し、穴だらけになる。享楽とは象徴化されえないもののことであり、それがシニフィアンの領域に存在していることは、この領域の穴と矛盾を通してしか察知することができない、したがって享楽の唯一可能なシニフィアンは、〈他者〉の欠如のシニフィアン、その矛盾のシニフィアンである。
 ラカンのいう主体が、分割され、線を引いて消され、シニフィアンの連鎖における欠如と同一であることは、今ではほとんど常識になっている。しかし、ラカンの理論のもっとも過激な次元は、その事実を認識したことにあるのではなく、〈他者〉、すなわち象徴秩序そのものもまた、根本的不可能性によって棒引きされ、抹消されているということ、不可能な/外傷的な核をめぐって、つまり中心的欠如をめぐって構造化されているということを認識したことになる。〈他者〉の欠如がなかったら、〈他者〉は閉じた構造となり、主体に開かれた唯一の可能性は、主体が〈他者〉の中へとみずからを全面的に疎外することだろう。したがって、まさにこの〈他者〉の欠如のおかげで、主体はラカンが分離と呼ぶ一種の「脱-疎外」を達成する。ただしこれは、主体が、いまや自分が言語の障壁によって対象から永遠に分離されていると感じる、という意味ではなく、対象が〈他者〉そのものから分離されている、つまり〈他者〉が「手に入れなかった」、すなわち最終的な答えを手に入れなかった、という意味である。……
 ……グラフの左側の下向きのベクトルの三つの水準は、……まず第一に S(/A) がある。これは、〈他者〉の欠如を、つまり享楽に侵入されたときに象徴秩序に生じる矛盾をあらわしている。次に、空想の公式 S◇a がある。空想の役割は、その矛盾を隠す遮蔽幕になることである。最後に s(A) がある。これは空想に支配された意味作用の効果である。空想は「絶対的意味作用」(ラカン)として機能する。空想は、われわれがそれを通して世界を一貫して意味のあるものとして経験できる枠組み、つまりその中で意味作用の特定の効果が生じる先験的な空間を構成する。
 明らかにすべき最終の点は、どうして享楽とシニフィアンの右側の交点に欲動の公式(/S◇D)があるのか、ということである。すでに述べたように、シニフィアンは身体を分断し、身体から享楽を排出させてしまうが、この「排出」はけっして完全には達成されない。象徴的な〈他者〉の砂漠の周辺には、つねになんらかの残滓が、享楽のオアシスが、いわゆる「性感帯」が、いまだに享楽が浸透している断片が、散在している。そして、フロイトのいう欲動はまさにそれらの残滓に結びつけられているのである。欲動はそれらの残滓の間を循環し、脈動しているのだ。それらの性感帯が D(象徴的要求)で表わされるのは、それらには「自然な」「生物学的な」ところはまったくないからである。身体のどの部分が「享楽の排出」の後に生き残るかは、生理学によってではなく、身体がシニフィアンによっていかに分断されるかによって決定される(それを確証しているのが、首とか鼻など、「正常な」場合には享楽が排出されている身体部分がふたたびエロス化されるという、ヒステリーの症候である)。
 …………
 われわれはこのようにして、欲望のグラフの上の(第二の)部分全体を、「呼びかけを超えた」次元をあらわしたものとして読むことができよう。象徴的同一化と/あるいは想像的同一化の不可能な「求積法」(円の四角化)は、いかなる残余も後に残さないという結果はけっして引き起こさない。つねに残滓があり、それが欲望のための場所をあけ、〈他者〉(象徴秩序)を矛盾したものにする。空想は、その矛盾、すなわち〈他者〉の空間を克服し、隠蔽しようとする企てである。……「呼びかけを超えた」次元は、意味作用の過程のある種の還元不可能な分散性や複数性といったものとは無関係である。つまり、換喩的な滑りはつねに意味の固定を、浮遊するシニフィアンの「キルティング」を覆す、という事実とはなんの関係もない。「呼びかけの彼方」にあるのは、欲望、空想〔男女の理想的な性的関係、敵対性によって引き裂かれていない社会、等々〕、〈他者〉の欠如、ある耐えがたい余剰享楽のまわりで脈動する欲動の、四角形である。……シニフィアンの中の享楽……」
(スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』)
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