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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<功利主義のリミット

「ミルの議論には前提する動機論と要求する動機論のあいだに撞着がある、と私は述べた。しかし、彼の議論が規準論の範囲にある限り、その撞着を解くのは容易であった。その場合、自己利益と一般利益〔最大多数の最大幸福〕は同一の水準で要求されていないので、人は自己利益を動機として一般利益を推進することが論理的-文法的に可能だったのである。しかし、ミルが行なったように道徳の要求を人々に対する自分の呼びかけと一体化させるならば、事情は変化せざるをえない。その場合にはもはや、功利性(一般利益)を要求する道徳規範の存在を前提すれば利己的動機はしばしば功利的(一般利益を推進する)行動をうむ、などと呑気なことを言ってはいられない。功利性は、それを奨励する規範が存在しているという形での前提ではもはやなく、利己性と同じ次元でそれと対立し、それを制限するものとならざるをえないからである。そうなれば、「誰もが自分の幸福を望んでいる」ということを根拠にして「一般的幸福が望ましい」と主張するのはまったくの撞着であろう。……この撞着を解消するためには功利性の原理を規準論に限定せざるをえない。だがそうなれば功利主義という「主義」は消滅する。逆に、功利主義を「主義」として、つまり「呼びかけ」として維持したければ、その「学説」としての前提の本質的な部分を放棄せざるをえない。そうなれば功利性の原理の理論的な革新性は消える。私は『功利主義論』にこのディレンマに直面した著者の動揺を読む。「高貴」や「徳」の例のほかに、たとえばミルが功利性の原理以外の道徳原理を実質的に密輸入しているという、しばしば指摘される問題についても、この観点から理解していくことができると考えている。」
(永井均「利己性──『私』の倫理学」)
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