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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<隣人の外傷的帰還

「この一節〔『ルカによる福音書』の「よきサマリア人」の話〕は、通常考えられているような、「人に優しくせよ」というような道徳観念とはまったく別のことを示している。律法の専門家は、イエスに問い返され、旧約聖書の言葉を引く。永遠の命を得るために、「隣人を愛せ」と。「隣人」とは通常、同じ共同体の人間と捉えられる。仲間だから、同じ血だから。「ある人」がどの共同体に属するのか、寓話では明らかにされないが、その人を見捨てた「祭司」と「レビ人」は律法の専門家と同じ、ユダヤ共同体の人間だ。ちなみに追いはぎに襲われた人を助けた「サマリア人」は、ユダヤ共同体からは忌み嫌われていた。「わたしの隣人とは誰か」。そう問う質問者は、あくまで「隣人」を「わたし」にとってどんな関係性のある人か、という次元で捉えている。ところが、イエスの語る寓話は、それとは逆の方からの問いかけなのだ。
 「隣人とは誰か」ではない。「誰が隣人たりうるか」、なのである。「あなたは隣人たりうるか」、なのである。
 あらかじめあるシステムのルールの中で、共同体の中で、仲間に優しくすることは自己保存の営利行為である。そこに他者はなく、そこに他者に反射された主体はない。それに対し、己が隣人たりうるか、という問いかけは、共同体とは別のところに主体を創る可能性を生む。さらに踏み込めば、ここで問題とされている「永遠の命」、これは、まるで手がかりのない、誰何不能の他者の「隣人」たりえた時にのみ成立するデタラメな彼岸だ。なぜならば、「隣人」に死はない。そして、そのようなデタラメな跳躍だけが、わたしと他者に生を共有させる。わたしが他者の隣人たりえた時、そこにのみ、永遠の命がある。ありえない、とあなたがたは言う。そのありえなさはきっと、「行って、あなたも同じようにしなさい。」とイエスが言うこと、その困難に、等しい。」
(nos/unspiritualized「バスがイェリコに着いたのは」)
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