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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<象徴的同一化(欲望としての主体)

「想像的同一化と象徴的同一化との関係──理想自我[Idealich]と自我理想[IchIdeal]との関係──は、ジャック=アラン・ミレールがおこなっている区別にしたがえば、「構成された」同一化と「構成する」同一化との関係である。簡単にいえば、想像的同一化とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化であり、象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分たちにとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。
 われわれがごくふつうに抱いている同一化の観念は、モデル、理想、イメージ・メイカーを模倣するというものである。たとえば、よく(たいていは「成熟」した視点から下を見下ろしたような言い方で)、若者は人気ある英雄、ポップ・シンガー、映画スター、スポーツマン等々に同一化する、と言われたりする。この一般的な観念は二重に誤解を招く。第一に、われわれが誰かに同一化するときにその根拠となる特徴は、ふつう隠されている。それはかならずしも魅力的な特徴であるとはかぎらないのだ。
 …………
 ここから学ぶべき理論的教訓は、他者の失敗とか弱さとか罪悪感といったものもまた同一化の特徴たりうるということだ。したがって、われわれは失敗を指摘することによって、はからずも同一化を強化してしまうのである。……
 だが、第二の、さらに深刻な誤りは、想像的同一化はつねに、〈他者〉のあるまなざしのための同一化であるという事実を見落とすことである。したがってモデル・イメージの模倣とか、「ある役割を演じる」とかいったことにたいして、向けるべき問いはこうである──誰のために主体はその役割を演じているのか。主体がある種のイメージにみずからを同一化するとき、いかなるまなざしが考慮されているのか。自分が自分自身を見る見方と、そこから見ると自分が自分にとって好ましく見えるような場所との、このずれは、ヒステリー(とその亜種としての強迫神経症)の理解にとって、いわゆるヒステリー症者の劇場にとって、きわめて重要である。ヒステリー患者の女性が芝居がかった発作を起こしているとき、もちろん、彼女は明らかに、〈他者〉の欲望の対象として、自分を〈他者〉に捧げるためにそのような行為をしている。だが、具体的な分析は、彼女にとっては誰が──いかなる主体が──〈他者〉を具現化しているのかを明らかにしなければならない。たいていの場合、きわめて「女性的な」想像的人物像の背後には、ある種の男性的・父親的同一化が見られるものである。彼女は脆弱な女性性を行動化しているのだが、象徴的次元においては、じつは彼女は父親のまなざしに同一化している。彼女が望んでいるのは、自分が父親の目に好ましく映ることなのだ。」
(スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』)
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