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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<享楽の彼岸

「しかしながら、もし症候をラカンが最後期の著作やセミネール──たとえば、「ジョイス-症候 joyce-the-sympton」について語るときがそうである──で述べたような意味で、つまり享楽への基本的かつ構成的関係の構造化を可能にすることで主体に対して存在論的一貫性を与えるある特殊な意味作用的形成体として理解するならば、症候と主体との関係総体が転倒する。もし症候〔反対存在〕が解消してしまうなら、主体は自らの拠って立つ土台を喪失し、解体してしまうのである。それゆえ「〈女性〉とは男性の症候である」という主張は、〈男性〉自身、自らの症候〔反対存在〕としての女性を通じてのみ存在するのだということを意味しているのである。要するに、男性のすべての存在論的一貫性は、自身の症候〔反対存在〕に基礎を置いており、症候に吊り下げられており、症候のうちに「外在化」されているのだ。いいかえるなら、男性は字義通り外-存する ex-sist。彼の存在の総体は「あそこ out-there」、女性においてあるのである。他方、〈女性〉は実在しない。つまり、内-存する insist。男性とは対照的に〈女性〉は男性を通じてのみ存在するわけではないのであるが、その理由はまさにこの点にあるのだ。〈男性〉との関係を逃れ出ていく何かが彼女のうちにはある。ファロス享楽〔反対運動・否認の享楽〕の参照を逃れていく何かが。そして周知のごとく、この過剰こそ、「すべて-ではない」女性的享楽という概念をもってラカンが捉えようとしたものなのである。だが、これによって『パルジファル』に対して異なる読みを施す可能性が生まれてくる。ここではジーバーベルクはまたもや正しい。というのも決定的な転換の場面以降(クンドリのキスをパルジファルが拒絶して以降)、パルジファルを演ずる男性俳優を女性の俳優に取り替えるのだから。〈女性〉とは男性の症候なのであり、ファロス享楽に従属しているかぎりで彼女は、自らの要求の否認を要求するというヒステリーのゲームに囚われてしまっている。とすればワーグナーの基本的マトリクスは、それとは異なるパースペクティヴの下にあるように思われる。つまりワーグナーにおいては、女性はファロス享楽を否定することによって男性を救済するのだ(これは、男性は自らのファロス性を克服することで女性を救済-破壊するというオットー・ヴァイニンガーのパースペクティヴに真っ向から対立するものである)。」
(スラヴォイ・ジジェク『否定的なもののもとへの滞留』)
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