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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<近代人の悪循環

「これまで見て来たところによって、ルソーのいわゆるパトリオティスム(=ナショナリズム)が、個人の意志をこえたある普遍的・絶対的な意志への服従を意味していることがわかる。その一般意志はいわば伝統的な神にかわる新たな神という意味をおびていた。そしてその新しい教会に当るものが従来の「キリストの共同体」にかわって、ネーションとよばれるものにほかならなかった。そのさい、前者において、はじめて人間の愛の共同社会が可能とされたように、新たな教義としてのナショナリズムにおいて、はじめて近代人の幸福な共同生活が可能であるとされた。そして、そのような変化をもたらしたものは、教会を含めた中世的共同生活の様々な秩序が崩壊し、人間の善意という唯一のものしか、新たな共同秩序の形成原理として残されていないことに気づいた人間の孤独な意識の目ざめであったということができよう。そこには、いわば近代の病理というべきものへの実に早熟な意識さえあらわれていたのである。
 ルソーのより年少の使徒であったサン・ジュストの恐るべき思想はすでに見たが、そのサン・ジュストにも「幸福とは、ヨーロッパにおける新しい観念である」という象徴的な言葉がある。この恐怖政治の大天使もまた、決してただテロールのためのテロールを目ざしたのではなかったことがそこからうかがわれるであろう。端的にいえば、その思想は、人間は幸福たらんとするならば、パトリオットでなければならないというものであった。しかもそれは、あの幼年期の回想と結びついた平和なパトリオティズムではなく、祖国に対する血みどろの献身をさえ要求するものであった。……
 いうまでもなく、このような熱烈な意識は、当時の啓蒙主義的合理主義のオプティミズムとは著しくことなったものであった。後者の冷静で優雅な合理主義と普遍主義の眼から見るならば、それはどこか忌まわしい主意性のあらわれとみられたであろう。事実、ルソーの論敵ダランベールは、ルソーをルッターにたとえているが、それはルソーの理念にひそむ既成文明への野蛮で熱烈な破壊力を指していったものであったろう。
 こうした意識が啓蒙主義の時代に生れえたということは、たしかに不思議といってよいかもしれない。E・バーカーの言葉でいえば、ルソーの「社会契約論の哲学は架橋の哲学である。それは自然法からネーション・ステートの理想化への移行の目じるしである」とされるが、そのような意味においても、ルソーは明らかに一つの時代をこえて、次の時代へと歩み入った預言者的思想家であった(その点においても彼はニーチェに類推されうる)。
 ヨーロッパ思想史において、ルソーの国家哲学にあらわれた恐るべき「一般意志」の理念を人間精神の問題としてとらえなおし、そのことによって、知識の世界にいっそう恐るべき破壊をひきおこしたもう一人の人物がカントであったことは多言を必要としない。ハイネ風にいえば、ルソーの使徒ロベスピエールは唯一人の国王の首を切ったにとどまるが、カントの哲学は、その認識論によって「神、つまり世界の最高の主人」を虐殺してしまった。こうして世界に残されるものは、個人の自律的な意志だけとなり、宇宙の中心にそのいわゆる「至上命法」が君臨することになった。神はただ自律的意志の「要請」によって、いわば作為された虚構の存在に転落する。
 こうしてカントの思想を源流として、ドイツにもまた人間の意志を中心とする主情的な政治思想が展開するのであるが、その心情の基本的な原型はすでにルソーによって与えられている。それは一言でいえば、神を見失ったのち近代人の幸福はいかにして可能であるか? という発想であった。そして、その答えは、具体的には絶対にあやまることのない「一般意志」、即ちほとんどホッブズの「リヴァイアサン」に似た強力な権威の創出とそれへの忠誠ということであった。ルソーは、近代人の卑小さをあのばら色の啓蒙期において予見していたのである。」
(橋川文三『ナショナリズム』)
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