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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<虎&馬

「ジュイサンス(享楽 jouissance)は精神分析的存在論とでも言うべきもののまさに基盤にかかわっている。トラウマの元になる、過度に強烈な出会いが、患者が自分の世界体験の存在論的な重みをすべて引き受ける力に影響するとき、精神分析は、「現実性の喪失」の経験との関連で、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という根本的な存在論的問いに行き当たる。ラカンはその講義の最初から、存在の、内在的でどうしようもないトラウマの元になる地位を力説する。「そもそも、現実性について実は人がいつも疑問にしているすべての存在について、ありそうにないものがある」。後に、彼の講義の重大な転機を経て、彼は存在(「そのもの」と加えるべきか)を特有のトラウマをもたらすものとして──つまり、その存在が完全には引き受けられず、幽霊のような存在論以前的と認められるものとしてジュイサンスにつなげる。……
 ……つまりジュイサンスは、無から有への移行を説明する存在論的な異状であり、乱れた均衡である(古い哲学用語を用いれば、クライナメン)。それは主体の現実の密度をもたらす最小限の収縮を指している。幸せな結婚をして、仕事にも多くの友人にもめぐまれ、生活には申し分なく満足していて、それでもある特定の形(「サントーム」)のジュイサンスにのめり込んでしまい、それ(麻薬、たばこ、酒、特異な性的倒錯)をやめるよりも、すべてを危険にさらしてしまうこともある。当人の象徴の宇宙はきちんと整っているが、このどこから見ても無意味な侵入、このクライナメンは、すべてをひっくりかえし、どうすることもできない。主体が存在の密度に遭遇するのはまさにこの「サントーム」においてだけなのだ──それを奪われてしまうと、本人の宇宙は空っぽになる。もう少し極端でないレベルで言っても、すべての真に相互主観的な遭遇について、同じ事があてはまる。我々が本当に「言語の壁を超えて」〈他者〉に、その本当の存在において遭遇しているのはどんなときか。それは相手のことを記述することができるときでもなければ、相手の値打ち、夢などを知ったときでもなく、そのジュイサンスの瞬間にある〈他者〉に遭遇するとき、つまり、ジュイサンスの現実の強度を示すそのささいな細部(強迫的な身振り、過剰な顔の表情、ひきつり)を識別してこそなのである。この現実との遭遇は、つねにトラウマの元である。そこには少なくとも最小限、いかがわしいところがある。私はそれを自分の宇宙に取り込むことはできず、そこから私を隔てる溝が必ずある。
 かくてジュイサンスは主体の「場所」となる──その主体の「ありえない」〈そこにあるもの〉、ダーザインであると言いたくなるところだ。そしてまさにそのために、主体はつねにすでに、それに対してずれており、断絶しているのである。ラカン的主体がそもそも「中心をはずれている」とはそういうことである。主体が決して「主観化」できず、引き受け、統合することのできない、トラウマの元になる〈物・ジュイサンス〉に対して中心をはずれることは、「大文字の〈他者〉」、つまり主体の真実の外部の場所である象徴の次元に対して主体が中心をはずれるよりも、はるかに徹底的で根本的である。ジュイサンスは、あの有名な内密な[heimlich]ものである。つまり同時に最も不気味[unheimlich]なものであり、つねにすでにここにあって、しかもまさにそういうものとして、つねにすでに失われているのである。」
(スラヴォイ・ジジェク『幻想の感染』)
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