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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<隣人の外傷的帰還2

「山城むつみの吉本隆明追悼文目当てで買った『群像』5月号だが、竹田青嗣のそれに強く引き寄せられた。予想外だった。なぜなら、僕はこれまで竹田の文章を読んで関心を持ったことがかつてなかったからである。彼の吉本追悼の言葉の出だしは、自らの「在日問題」を語ることから始まる。
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竹田青嗣は二十歳代「在日青年」として絶対的な問いにぶつかったという。「民族として生きるか、日本社会に同化するか」。この時「光明」となったのが、彼の場合、フッサールと吉本隆明、殊に吉本の「転向論」だという。この導入に僕は息を飲んだ。竹田は彼の実存において吉本と出会ったのか。
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竹田は吉本の「転向論」をこう読んだ。吉本は、信じた世界観を取り巻く環境が戦中/戦後の線の前後で180度変わるという体験をした。「正しさ」が「誤り」となったのだ。そのとき、知識人たちはいくつかの選択をした。一、信念を貫く。二、環境に適応する。三、新たな権威に乗り換える。
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つまり、知識人たちは、「正しさ」の喪失の体験を受け止めることをせず、「正しさ」を保持するかすげ替えるかを選んだのだ。しかし、竹田によれば、吉本はそれらのいずれをも選ばず、この「正しさ」の根拠をこそ思想した。なるほど、この読解に依れば、竹田のフッサールの読みが見えてくる。
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フッサールによれば、いかなる認識もドクサ(偏差)から無縁ではない。吉本風に言えば、このドクサは認識の前提となるその時その場所の「関係」によりもたらされている。しかしこうしたドクサに基づいた認識を持ち寄って、とりあえずの普遍的な認識(間主観的認識)が成立している。
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さて、竹田はおのれの「在日問題」については冒頭でしか言及しない。しかし、吉本が突いた「正しさ」への根源的な疑義や、フッサールの提出した間主観性を、竹田の「在日問題」が貫いていることはあまりにも明らかだ。僕は驚いた。なんと、竹田青嗣という思想家のコアはここにあったのか!と。
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つまり、だ。吉本隆明が直面した戦前戦後で入れ替わる「正しさ」、フッサールがたどり着いた現象学、これらにおいて、竹田青嗣は自らの入れ替わる(ことを強いられる)国籍やナショナリティーについて思想していたのだ。彼は明言していないが、このたった2頁の小論において僕はそう理解した。
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僕は戦慄した。かつて吉本の『マチウ書試論』を読んだ時、僕はこの世で最も孤独な少年として読んだ。戦慄し、その孤独を背負うことを決意したつもりだった。しかし、竹田青年においては、はるかに重く、大きなくびきの下にあって、つまりより孤立した孤独にあって、それを読んだのではないか。
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君よ。日本人よ。所与の国籍をこよなく愛する君よ。君はいまだ「関係の絶対性」(『マチウ書試論』)に気付いてすらいない。一夜にして世界が真逆になったことがない。民族か日常の便利かを選ぶことを強いられたこともない。その「孤独」に独り立たずして何かを愛することなど、できようか?
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批評はねじれにおける覚醒からしか生まれない。己に充足する処に批評はなく自慰があるだけだ。在日コリアンは、日本への最大かつ最高の批評である。その批評を知るためには、僕らが在日の最高の隣人たること以外はない。彼らが隣人かどうかではない。僕らが隣人たりうるか、が問われているのだ。
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「俺が国籍を変えないのは、もうこれ以上、国なんてものに新しく組み込まれたり、締め付けられたりされるのがいやだからだ。もうこれ以上、大きなものに帰属してる、なんて感覚をかかえながら生きていくのは、まっぴらごめんなんだよ。…」(金城一紀『GO』より)
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在日コリアンが「帰化」を選ぶか選ばないかには、きっとそれぞれの事情と考えがある。“統一”までこのままでいるという方に会ったこともあるし、『GO』の主人公ような選択もあるのかもしれない。しかし、選択それ自体を想像もしない者が知ったかぶるのはあさましい。
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僕はとても在日コリアンの国籍への向き合いを想像することはできないが、自分の祖先が十津川郷士と知って以来、ルーツを掘り進め、日本や日本史を十津川・熊野から観るようになった。観えなかったものが観えてきた。角度により無数の僕のまだ観ぬニッポンがあるはずだ。それを学びたい。」
(nos/unspiritualized「Twitter拾遺」)
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