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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<超自我の勝手にしやがれ

「いろいろな倫理的態度のマトリックスの中で、超自我の地位はどういうものになるだろう。ここではオーソン・ウェルズの映画に依拠するといい。ウェルズは、最初の(実現しなかった)映画の企画『闇の奥』のカーツから始まって、『市民ケーン』、『偉大なるアンバーソンズ家の人々』、『黒い罠』、『アーカディン』を経て、『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』のフォルスタッフにいたるまで、「英雄的な」人物という登場人物に固執している。この「英雄的」人物は、その道徳との両義的な関係に特徴がある。彼は一般の道徳規範をあっけらかんと破り、周囲の〈善〉を無視し、周囲の人間を自分の目的のために無慈悲に利用しながら、それでも自分の目標に全身全霊を傾け、寛容であり、みみっちく計算する功利的姿勢とは正反対でもあり、ただ非倫理的とは言えない──そのふるまいは、われわれの了見の狭い考察には頓着しない、もっと深い「生命そのものの倫理」をふりまいているのである。……
 倫理と道徳の対立を拡大して記号論的四角形にすれば、根底にある観念のマトリックスが明らかになる。天と地で二つのきっぱりとした対立ができる。聖者は倫理的であり(自分の欲望について妥協しない)道徳的である(他者の〈善〉を考える)のに対し、悪人は不道徳であり(道徳規範を破る)非倫理的である(欲望を追求するのではなく、快感と利益を追求するのであり、確固たる原理に欠けている)。はるかにおもしろいのは、内属する対立を表現する二つの横方向の対立である。英雄は非道徳的であるが倫理的である──つまり現にある明白な倫理規範に、より高い人生の倫理、歴史の必然性などの名において違反する(あるいはむしろその妥当性を中断する)のに対し、超自我は英雄の正反対、非倫理的な道徳的〈法〉、道徳規範への従属に猥褻な享楽が付着している〈法〉(言ってみれば、生徒のためと言って生徒をしごきながら、そのしごきに自分自身のサディスティックな装いがあることをすぐには認めない厳しい教師)を指している。
 しかし、これは、倫理的な領域に、〈法〉と超自我の間の緊張を回避する方法がないということにはならない。ラカンの精神分析の倫理についての格言(「自分の欲望について妥協しないこと」)は、超自我の圧力と混同されるべきではない。それはつまり、最初のアプローチでは、「汝の欲望をあきらめるな」という格言が、超自我の「楽しめ」という命令と一致しているように見えるかもしれないということだ──われわれは自分の欲望について、まさに享楽を断念することによって妥協しているのではないのか。超自我が倫理的代理人の基本的、「原初的」核を形成するというのは、フロイトの根本テーゼ、一種のフロイト派の決まり文句ではないのか。ラカンはこの決まり文句に逆らう。欲望の倫理と超自我の間に、根本的な排除の関係を立てるのである。それはつまり、ラカンはフロイトの超自我の「経済的逆説」、つまり、超自我の特徴である悪循環を正面から、文字どおりとらえる。われわれが超自我の命令に従えば従うほど、その圧力が大きくなり、罪の意識も大きくなる。ラカンによれば、この「罪の意識」は精神分析治療のときに除去されるべき自己欺瞞ではない。われわれは本当に罪を犯しているのだ。超自我は、それが主体に行使する圧力のエネルギーを、主体が自分の欲望に忠実ではなかったこと、それをあきらめてしまったことから引き出している。超自我に自らを献じ、超自我に貢ぎ物を献じることは、罪を明らかにすることにしかならないのである。そういうわけで、われわれの超自我に対する負債は返せない。払えば払うほど、負債ができることになるのだ。超自我は、われわれを少しずつ、死ぬまでさいなむ強請のようなものである。手に入るものが多ければ多いほど、相手にしっかりととりつくのだ。
 …………
 こうしてラカン的倫理は、義務と善に対する配慮との根本的な分離を含む。……ラカンは、最も危険な形の裏切りは、自分の「病的」衝動に直接身をゆだねることではなく、むしろ、一種の善を引き合いに出すことであると主張する。自分の義務を、そんなことをしたら神(自分自身のにせよ、共通のものにせよ)を傷つけることになるかもしれないと言い訳して逃れる場合のようなものである。私が「事情」や「望ましくない結果」を言い訳に持ち出したとたん、私は破滅の道にある。私の欲望について妥協するときの説明になる理由は、説得力があり、根拠もあり、尊重すべきものでもありうる。私は、生態学的損害にいたるまで、何でも持ち出すことができる。言い訳を探す技術は限りがない。私の周囲の人々の幸せが私の行為によって危険にさらされるというのは「本当」かもしれないが、倫理と善の配慮とを分ける深淵は、それでもあくまで乗り越えられない。……
 フロイトの悪名高き断言、女性には超自我はない──あるいは少なくとも、女性の超自我は男のものよりも弱い──とは、したがって、まったく新しい姿で表れる。女性に超自我がないということは、その倫理を証し立てている。女性は超自我を必要としない。超自我が麻痺させられるような罪がないからだ。つまり、女性は自分の欲望について妥協することがはるかに少ないからだ。ラカンが、純粋に倫理的な姿勢の模範例として、アンティゴネーという「決してあきらめなかった」女性をあげるのも決して偶然ではない。すでに、理論以前の直観的なレベルで、彼女は超自我の圧力があるからそういうふうにふるまっているわけではないことは明らかだ。超自我はここでは無関係だ。アンティゴネーは、共同体の善についてはまったく考えていないにもかかわらず、自分の行為がとんでもない結果をもたらすかもしれないということを考えていないにもかかわらず、有罪ではない。そこに男の超自我と、男には共同体の善の感覚が女性の場合よりもはるかによく表れるという事実の間のつながりがある。「共同体の善」は、自分の欲望について妥協するための標準的な言い訳である。超自我は、われわれの罪を元手にした復讐である。それはつまり、善の名のもとに自分の欲望を裏切ることによって背負う罪に対して払う代償である。言い換えれば、超自我は自我-理想、共同体の善の上に立てられた倫理的規範の必要な逆、裏面である。」
(スラヴォイ・ジジェク『快楽の転移』)
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