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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<見えない敵と闘う男

「おそらくカフカはヨブがしたように神と争う。偉大なる神に対してではなく、いや卑俗でしかない、些末なかたちであらわれて、足をすくうが故に偉大かも知れぬ神と。声をもたぬくせに、声をもつヤツ。実際、『城』でも『審判』でもほんとうにKは足をすくわれてしまったのである。姿を持たぬくせに、独特なかたちで姿をもつヤツ。この罠の仕掛屋。矛盾にみちながら、矛盾のないヤツ。既に在るヤツ。その虫のよさ。こいつに対しては、こちらも時には詐欺を使わねばならない、いかなる肉体からも、姿なき組織を見なければならぬ。肉体の消滅を行わねばならぬ。卑俗なアラワレをつかんで、こちらから肉体の消滅をはかってやらねば、出しぬかれる。
 この作者が抽象的な作風である根本の理由は、以上のようなものだと思う。見えているものを見えなくするのではない。見えない敵と闘うために、見えている肉体を一つ一つ消して、同次元にしつつ戦陣をはるのである。策戦である。

 だって私たちは雪中に立つ樹なのだ。見たところそれはすべすべと雪の上に載っている。ちょっと押せば簡単に押しつけられそうに見える。ところが、そうは行かない。固く大地に根を張っているのだから。だが見よ、それさえも見かけに過ぎないのだ。(『樹木』)
 ここに不思議な接続詞があらわれている。まるで接続詞のために書いた文章のようでさえある。傍点を打った三つの接続詞。文章はよく接続詞に秘密をあかすものだが、これも正にそうだ。
 「だって」「ところが」「だが見よ」──これは三段構えの消去の接続詞。支配的な接続詞。彼の大きな作品も、この三段の消去を辿っている。彼は相手の登場を一人一人消去する。そうして、「だって」と思う。「ところが」と思う。そうして結局みずからも「だが見よ」と消去されてしまうのである。」
(小島信夫「消去の論理」)
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