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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<細部に悪魔は宿る2

「彼〔カフカ〕のいわゆる象徴主義はたえず解釈をそそのかしながら決してその鍵をひきわたさない。ほんとうの象徴として扱われると、カフカのイメージは、事実、対立し、矛盾し、さらにはまったく相容れない沢山の意味を帯び、そのため、それらのうちから任意にえらぶか、あるいは、辻褄を無視して、それらをそっくり受け入れるかしなければならない。第一の場合は、読者はまったく個人的で主観的な第一印象から出発し、それが、もし裏書きされれば、やがて確信の力をうる。もしひとが、カフカの生活、彼の関心、家庭内での、また彼の時代のユダヤ教の中における彼の立場、彼の病気について知っているとすれば、彼はたとえば『審判』の法廷の中に、その不可解な道に従って「人間」を、この場合にはヨーゼフ・Kを、裁く神の「法廷」のイメージを見る。……
 こういう風に事を運ぶことによって、ひとはまちがいなく彼〔カフカ〕のロマンをひとつの図式に還元してしまうが、この図式はある種の神学的思想と部分的には合致しても、しかし決して、そのロマンがそのさまざまな細部、さまざまな思いがけない人物、唐突な色彩を通じてわれわれに伝えるがままのカフカのヴィジョンとは合致しないのである。単にわれわれがそのロマンの中に「摂理」、「神」、あるいは「最後の審判」と関連していることは少くとも疑わしいような沢山の人物や事物と出会うばかりでない、さらにまた、Kの前で、みながみな、あたかも彼が知らないことに通じており、彼に対して連合するかのようなこれらの人物たち──女たち、下宿の女主人、弁護士、画家、司祭、見張りたち──についてどう考えたらよいのか、判らなくなる。彼らがすでに審判を受けているということだろうか。彼らはえらばれた者、正しい者、彼を救うために、あるいは破滅させるためにやって来た天使たちだろうか。ひとびとが、こういった疑問に答えることができるのは、明らかにロマンにとって外的な考察によってのみ、人物たちのさまざまな事実や会話の外、でしかない。なぜKをとりまくひとびとは、見張りから司祭までみな同じ口調で彼に話すのだろうか。それによれば「被告たちはみな美しい」ということになるあの公理は何を意味するのか。なぜ弁護士の女中は右手に二本の指をつなぐ膜があることを自慢するのだろうか。下宿の女主人が、彼女には判らないが、彼の訴訟が「ひとが判る必要もない」「なにか学識があるような」印象を与えると彼にいうとき、なぜKは彼女に同意するのか。こういった事柄は、心理的な必然性には応じてはいないので、当然それらはこのロマンの象徴的な説明の中でとりあげられなければならないが、「神の法廷」という仮説はそれらになんら説明を見出すことができず、それらを邪魔物扱いする。そして辻褄を合わせるために、この仮説はあっさりとそれらを無視する決心をするのである。」
(マルト・ロベール『カフカ』)
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