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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<Re: 細部に悪魔は宿る

「マルト・ロベールは、カフカの物語が、飽るほどいわれてきたように、さまざまの象徴で織りなされているのではなく、まったく異なる技法、ほのめかしの技法の所産であることをひじょうによく示している。このちがいがカフカ全体をからめる。象徴(たとえばキリスト教の十字架)は確かな記号である、それはかたちと観念との間の(部分的な)アナロジーを断言する、それはひとつの確実さを含んでいる。もしカフカの物語のさまざまな形象や出来事が象徴的であるなら、それらは実証哲学に、ひとりの「普遍的人間」に送りとどけられることだろう。ひとはある象徴の意味について意見を異にすることができず、さもなければ象徴は成立しないからである。ところが、カフカの物語はどれも同じように是認できる無数の鍵を正当化する、ということは、そのどれひとつとして有効としないのである。
 これとはまったく異なるのがほのめかしである。それは小説の出来事をそれ以外のものへ送りとどける、だが、なにに? ほのめかしは欠如的な力である、それはアナロジーを定位するやただちにそれを解体する。Kは「法廷」の命令で逮捕される、これは「裁判」の日常的なイメージだ。ところがこの「法廷」はわれわれの「裁判」とはちがって軽犯をまったく予想していないことをわれわれは教えられる。類似ははぐらかされる、とはいえ消え去りもしない。要するに、マルト・ロベールがよく説明しているように、万事は一種の意味論的な縮約から生じる。Kは自分が逮捕されたように感じる、とすべてがあたかもKが現実に逮捕されたかのように運ばれるのだ(『審判』)。カフカの父は彼を寄生虫扱いする、とすべてがあたかもカフカが寄生虫に変身したかのように運ばれる(『変身』)。カフカはこれらのあたかもをシステマティックに抹殺することによって彼の作品をつくり上げる、しかし、ほのめかしかくされた項となるのは内的出来事なのである。
 ごらんのように、ほのめかしは意味作用の純然たる技法であるが、それがひとりの独異な人間と共通言語との関係を表わす以上、ほのめかしは、実際、世界全体をまき込む。……たとえば(マルト・ロベールは指摘する)、ひとびとは普通、犬のように犬のような生活ユダヤ人の犬という。メタフォリックな項を物語の実の対象とし、主観性をほのめかしの領域に送りとどければ、それだけで侮辱された人間がほんとうに犬であるのに充分なのだ。犬のように扱われた人間は犬である。カフカの技法はしたがって、まず世界への同意、日常言語への服従を含んでいる、しかしそのすぐあとで、世界によってさし出されたさまざまの記号の字義を前にしてのひとつの留保、ひとつの疑い、ひとつの怖れを導入する。マルト・ロベールは、カフカと世界との関係がたえざるしかりしかし……によって規制されていることを見事に述べている。……
 しかりしかしからへだてる道程、それは記号の不確実さの全体である、そして記号が不確実だからこそ、文学が存在するのだ。カフカの技法は、世界の意味は言表されえないこと、芸術家の唯一の努力は、そのひとつひとつをとってみれば虚偽(不可避的な)でしかないが、その多様性が作家の真実そのものであるような、さまざまなありうべき意味作用を開発することであると語る。ここにカフカの逆説がある、芸術は真実に依存する、しかし真実は不可分なので、それ自体自分を識ることはできあにのだ、真実を述べること、それは嘘をつくことだ。こうして、作家は真実である、にもかかわらず彼が語るとき、彼は嘘をつく。……作家を世界の中でかかわり合いにさせるのは最終的にエクリチュールの精密さ(いうまでもなく構造的な精密さであって、修辞学的な精密さではない、問題は《名文》ではないのだ)である、そして、それは彼の選択のあれこれの中においてではなく、彼の背反そのものにおいてである。つまり、文学が可能なのは世界が出来上がっていないからなのだ。」
(ロラン・バルト「カフカの返答」)
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