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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<美女がいない野獣

「ありとあらゆる部分的または一般的な真実には、それらが同一の確信、つまりそれらは伝えることができ、また、伝えられなければならない、そして、それらのためには相応しい言語が存在するという確信の上に安住しているかぎり、優劣はない。この確信、それは神話をも、格言や宣告文をも浸しており、最終的には紋切り型の中に縮小され、とるに足らぬ生命を営んでいる。だが、この確信をこそ、カフカは否認する。それも宿命的にもうひとつの別の確信へ導くであろう議論によってではなく、ひとつの体験、それまでは真実はよく調整された装置のように働いているのに、そのメカニズムが突然、『流刑地にて』の士官を粉砕するそれのように、われわれの見ている前で調子が狂い、使いものにならぬ一山のくず鉄と化すといった体験によって、否認するのである。慎重にコントロールされたこの体験の果てに、カフカの物語はそのジャンル〔神話、叙事詩、寓話、おとぎ話、教訓譚、伝説、年代記、法律的なドキュメント、教養小説、探偵小説、冒険小説、SF、等々〕の存在理由をなしていた確信から解き放たれ、そのジャンルには予感すらできなかったようなひとつの疑惑をずしりと荷負わされる。彼が起源を語るとすれば、それは起源は知られていないこと、わずかに人間と彼の運命を封印する苦悩だけが、無制限に、説明もなしに存続していることを、語るためなのだ。彼が天地創造を語るとすれば、それは創造行為が忘却の中に沈んでしまい、わずかに事物の秩序を定めた立法者の想い出のみがなお漠然とただよっているような時代においてなのだ(『支那の長城がきづかれたとき』の昔の司令官、皇帝)。彼が伝える伝説の中で試煉は存在し、かつ不可避である、だが、その意味と目的はわからない(村医者は夜中のベルの試煉を受け入れるが、その試煉がどこに存するかを知らず、当然失敗する)。彼のおとぎ話の中には、ときとして妖精たちがいるし(アメリカの伯父はそのひとりであり、はじめは善良で、ついで悪意に満ち、真夜中の十二時が鳴ると、シンデレラのようにカールを罰する)、「変身」も起る、しかし決して呪縛は愛によっては解けない。「美女」がいないので「野獣」はただ死によってしか自由の身になれないのである。最後に、彼の探偵小説にあっては、謎は、探偵小説のもっともすぐれた作品におけるほど解きがたい、それは単に裏返しにおかれているだけであり、ひとが実際にさがすのは犯人ではなく、犯罪なのである。どの物語、どのロマンもこうして同等の力で発音されたひとつの《しかり》とひとつの《しかし》を含んでいる、《しかり》は共通の思想への同意であり、《しかし》は、この共通の思想を否定することなく、それを決定的な試煉に委ねるが、そこからそれが無事に脱け出ることは決してない。この《しかり》、それによってカフカはすべてのこれまで考えられ、語られてきたことの側に立つのであるが、この《しかり》のゆえに《しかし》は策を弄することを余儀なくされ、身をかくす。この《しかし》、それは一般的なものに還元しえず、絶対的に秩序破壊的なひとつの思想のカテゴリックな断定であるが、この《しかし》のゆえに、カフカの《しかり》は窒息し、束縛と疑惑の霧を通してしか決して認められないのである。」
(マルト・ロベール『カフカ』)
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