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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<無性格のリアル

「すでにしばしば指摘されたところであるが──そして事実これがカフカの詩概念の顕著な特徴なのだ──美は美としてのかぎりにおいてはカフカの諸作にはあらわれない。美の場所は空席のままにのこされている。あたかも美はこの世界と両立しえないのか、あるいはこの世界では決定的な役割を演じえないのでもあるかのように。カフカは彼が憧れるもののイメージででもあるかのように、形態なり、均斉なり、色彩なりの幸運な出会いに満足を見出す、ところが彼によって描かれる風景も、人物も、場所も、事物も、一つとして、このような幸運な出会いの裡に示されることがない。かといって、これらの風景、人物その他が不在の美を際立たせる役を果たしているわけでもない。それ自体としては、それらは実は美しくも醜くもないのである。たとえば風景は多くの場合単調で、凍てついた風景であり、この風景を本質的に性格づけはするが、われわれがこの風景にどのような美的判断を下すことをも促さない、二、三の特色に還元されている。『城』の背景の画布をなす景色について、われわれは単にそれが凍った冬景色であるということしか知らない。Kが定住しようとして空しく努力する村を半ば埋めつくす雪が描写されるのは、その純白さや純粋な輝きのためではない。雪は単に、それでなくとも物悲しく、冷たい事物をいやが上にも物悲しく、冷たくさせているだけなのだ。……カフカが実際に行ったことがなく、想像で描いているアメリカやロシア(『カルダ鉄道の想い出』)にもやはり、その美しさという面だけで読者を感動させうるものは全く見当たらない。明らかにカフカはどう見ても自然を描く画家ではない。彼の関心をひくものは人間なのだ。自分自身との、また都会文明との葛藤の中にある人間である。人間に対して、自然世界にとって代り、彼を自然世界から切り離す都会文明。しかしながら、風景に欠けている美はまた、カフカが書割としてではなく、彼の主人公の運命の積極的な要素たらしめている、大都会にも欠けている。……たとえば『審判』の都会は美しさも醜さも見当たらない、完全に無性格的な地帯に設定されている。都会、建物、室内、事物、こういったもののなに一つとして物語の中で、文学が(自ら熱狂して、その価値をほめ上げるために)美を設定する場である、あの伝統的な位置を占めるものはない。
 この特色は、概して、これだけでも充分驚くべきものであるが、ロマンの重点がかかる作中人物との関係において全く注目すべき様相を呈する。人物たちがいかに強烈な肉体的生命を付与されているにせよ、あるいはわれわれが彼らをその動作、物腰、さては彼らの肉体的疲労においてまでいかに正確に捉えることができるにせよ、われわれは彼らの外貌についてはなんら知るところがない。この点からいえば、ラバーンも、グレゴリー・ザムザも、ゲオルグ・ベンデマンも、ヨーゼフ・Kも、測量師もわれわれにとってはいわば未知の人なのだ(実をいえば、われわれはカフカ自身の特長のもとに彼らを想像して自発的にこの埋合せをしているのだが、これも彼の物語が一つの自伝である範囲内では正しい)。断片的な要素がそこここで、長身であるとか、長い腕をしているとか、いくらか病弱であるとか、過度に肥満しているとか、暗示するのがせいぜいである。しかし、これらの特長でさえ、それらが予想させがちな方向に読者の判断を導くことは決してない。……
 一般的にいって、主人公は、として登場するにせよ、として登場するにせよ、また人間であるにせよ、既知の種族に分類することのできぬ雑種的生物の一つであるにせよ、肉体的にはその身上を欠いている。そしてこのことは論理的に納得できる。すなわち、われわれはその主人公の視線を介して事件に立ち会う、そしてこの視線は主人公当人(彼は自分のことを識っている)には注がれず、他者に注がれる。ところが他者が主人公に彼自身のイメージを送り返すのは単に偶然のきっかけからであり、それも部分的で、歪められたものでしかない。つまり、われわれが主人公の外貌について知ることが少なければ少ないほど、それだけわれわれは彼が他人の注意をひかず、彼の孤立がいよいよ深刻になっているのだと想定すべきなのだ。このように『アメリカ』から『城』に進むに従って、主人公の容姿の逐次的消滅が見られるが、この消滅はそれだけで一つの指標である。カール・ロスマンは、その力と若さとが、たとえ彼から不幸を遠ざけるには足りないとしても、彼の周囲に対して働きかける、そんな少年として示されている。一方、ヨーゼフ・Kはもはやいくつかの不明瞭な特長によってしか実在しない。そして測量師に至っては他人たちの視線が彼の上にとまらずに、ただ軽くふれるだけにすぎないのであって、もはやわれわれにとって肉体も顔ももたない。
 美的見地からいっても、したがってカフカの人物は生命のない諸事物同様、無性格的である。とはいえ彼は誘惑する、誘惑は彼の本性の根底にある、そしてまたこの誘惑は、それを彼の破滅に拍車をかけるさまざまな神秘な力と区別しえないほど、彼の運命の一部をなしている。この致命的な力、その源泉は判らないながら、われわれはそれが働いているのを見るのだが、この力をカフカの主人公が彼の個人的魅力からひき出しているのではないことは認めざるをえない。なぜならわれわれは彼の肉体的な有利さについてはなにも知らないからだ。事実、ヨーゼフ・Kの《美しい眼》は彼がほとんどの女たちに及ぼす征服力にはほとんど関与していないのである。彼の美しさなり、優しさなりは別のところから由来する、それらは全く一般的なある原則から生じている。この原則は弁護士によって彼に明かされるが、それによれば、年令や外貌にかかわりなく「被告たちはみんな美しいのだ」。『審判』を文字どおりに信ずべきものとすれば、ヨーゼフ・Kの美しさは彼のものではない、彼はその美しさを単に彼の被告という状態からひき出しているにすぎない、この状態が彼を魅惑的に、いやそればかりか、ある段階までは、抗いがたい人物としているのだ。」
(マルト・ロベール『カフカ』)
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