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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<奇怪なréalisme

「青年期の作品の構想との決定的な断絶をしるす『死刑宣告』を境に、物語のテクニックは根本的に変り、ゲオルグ・ベンデマン〔『死刑宣告』の主人公〕にラバーンや『ある戦いの手記』の婚約者の兄弟を認めることはほとんど不可能である。以前の主人公たちが夢の現実の中に置かれていたのに対して、ゲオルグは、彼にとっても、まただれにとってもその安定性と重さを疑う余地のない世界を前にしている。彼がやっている事業、彼が暮らしている家、父親の人となり、これらは動かしがたい物事であり、単に彼の疑惑の念を与えないばかりでなく、さらに彼の信念を養う。それに、これは、これから結婚しようとしていて、また彼を待ちうけているブルジョワ生活になんのやましさもなしに備えている、しっかりした、勇気のある、野心的な若者、したがって、彼以前の、自分の生活を夢みることで満足していた未完の人物たちの正反対なのである。しかもそれでいて、彼は彼らと同様、無力感や分裂感に二分され、引き裂かれており、しかもこの感情は、彼が衝突する世界が、彼の欲望がほしいままにすることのできないまさしく現実の世界であるだけに、いっそうゆゆしいのである。……
 『死刑宣告』をまって、カフカは彼の初期の作品をロマンティスムの伝統的な圏内(現実に対する夢の優位、《俗物ども》の世界に対する主人公=詩人のことばによる報復)に入れていた幻想性を決定的に捨て、その代りに彼の芸術のもっともオリジナルなしるしである奇怪なレアリスムをおいた。以後、彼は主観性をそのぎりぎりの帰結にまでおし進めることを彼に許すテクニックを駆使する、主観性は彼の小説の唯一の観点でありつづけるが、その可能性の極限にまで進んで、もはや物語の中では決して主観性としてはあらわれない。もっとも大きな変化は当然主人公にあらわれる、主人公は自分の欲望についてしゃべり、自分の魂の状態を叙述していたのに対して、いまや彼は自分のなかで起ることをあたかも彼の魂の状態が外部に投影され、したがって、突如万人の眼に見えるものとなったかのように示す者となる。同じように、彼はもはや夢見るのではない。ストーリーが彼の夢、知覚しうるものとなり、スペクタルに変えられた彼の夢なのである。物語の絶対的に主観的で、内的で、夢に属する性質は、叙述の客観性を信じさせる視覚的イリュージョンをいっそう強める。なぜなら、厳密な論理で扱われて、それは夢、内的独白、内省、心理的な動機づけといった、人物たちをどのような空間の中で理解すればよいか、その空間をとりちがえようもなく指示するあらゆる要素の、抹殺をもたらすからである。それ自体ひとつの夢以外のなにものでもない物語の中へ夢を介入させることは観点の変化を導入したかもしれない、しかしカフカはそれをどんな場合にも自分に許さなかった。こういうわけで、『変身』の冒頭で(それは「いらいらする夢からさめたとき」に起った、と彼はいう)彼はグレゴリー・ザムザの冒険が夢でなかったことをはっきりさせる。ヨーゼフ・Kの悪夢を叙述したあと、彼はそれを『審判』のコンテクストから切り離し、別の短篇集に入れて発表する(『村医者』に収録された「夢」)。同様に彼は『審判』の本当の性質を最後にあばくヨーゼフ・Kの夢〔その章でKは、自分が心の奥底で他の被告たちの存在を信じていないことに気づき、彼は自分が「法廷」によって追求されるべき唯一の者であることを知る〕を削除する、そして、それは、つねに主観性がその反対物に転化し、ロマンのあらゆる既知事項の位置を変えるという原理を貫くためである。この原理はきわめてねばり強く適用されているので、カフカの全作品の中で、この原理が守られていない部分はほとんど見当たらないほどである。おそらく、この芸術、それが論理に属するのか魔術に属するのか判らず、それについてわれわれにいえることは、ただそれが支配する奇怪な境界の上では、夢が真実になり、それに対して、論理それ自体が呪縛の犠牲であるということでしかないようなこの芸術の魅惑は、この原理にこそ帰せられるべきであろう。」
(マルト・ロベール『カフカ』)
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