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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<日常でないものはない

「ここで私は何故彼〔カフカ〕の作品に狂人がいないかということを考えねばならぬ。作品における狂人とはどういうことか、ということなど。狂人でないとして狂的な場面というものは、どういうものか、ということ。それから狂的な会話ということ。
 …………
 一つとして些事でないものはない、一つとして日常でないものはないものの連続の中で、普通の意味での、つまり見えるようにする意味の造型を放テキして行く彼の文章は、それこそ、黒い緊張といったものを要求することは事実だ。
 彼の場合は、異常は全体の設定において既に行っている。『独楽』を、来てしまった以上、そこから帰れぬ『城』を、場末のアパートふうの裁判所を。『支那の長城』を。父親の『死刑宣告』を。毒虫への『変身』を。
 こうなると彼が書く日常の些事は、日常の些事であることで、かえって本質的に入りこみ、おそろしさを、きびしさを増大するのである。実際のところ、『死刑宣告』されたゲオルグが橋から身投げする場景にしたって、死刑宣告する父親にしたって、何という無雑作だろう。笑うことはあっても悲鳴一つきこえない。毒虫になったグレゴールは、毒虫になったと思いながら習慣的に窓の外と壁を眺めもう一度眠りをむさぼろうとする。『皇帝の使者』はとっくみ合いも何もせず、汗を流して走るだけである。『法律』では、名前もない男たちが税金をまけてもらいに行く。名もないただの少佐がそれを待ちうけている。税金は予想通りまけてもらえない。彼らはホッとして帰ってくる。かなり沈静でさえもある。Kは始終沈静である。沈静であってさえも、罠におちる彼はこうして雄々しい、男らしいかたちをとる。異常を追い出して、その責任は充分、設定で果している。もちろん、この設定は事件ではない。もっと堅固なものだ。狂いがあるとすれば、事件や、人にあるのではない。狂っているのが本質だということなのだ。
 それだからこそ、読者は夜よむべきなのである。夜は人が本質に迫り迫られて生きる時間だ。雄々しいものが夜起きて、対峙することが出来る。光りの中に黒を見ることになれているものでなければ、この黒に耐えることは出来ないらしい。」
(小島信夫「消去の論理」)
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