「わたしはわたしの想像界を切除したのですがたまに幻肢痛のように傷口が疼くことがあり、特に無防備にひとと話すときは相手の瞳の中へ溶け込むような気分と記憶の中の苦痛との葛藤からチックを起こしてしまうらしく首から上さえなければ「わたしたち」であれたのに、と暗澹たる気分になる (posted at 22:20:19)
しかし肉体だけのわたしというのも惨めな存在であったには違いないので、郷愁というものはあったとしても現前=禁止としてしかあらわれえない わたしはわたしでしかないということの明確さ=狂気の正確な裏返しとしてそれはある (posted at 22:27:16)
なぜかといえばイメージだけが命令するのであり、イメージだけが掟を支配に対立するものとして定立しうるからなのだが (posted at 22:29:07)
イメージ=自己の連関を権力への意志から区分するために恋愛があるのだが、今日ではそれは自己保存のための自己保存としての文化に容易く搦め取られてしまう 恋における狂気と病としての狂気のあいだに置かれた寛容さという仮面の裏をよく見ればそこには魂=資本の自己増殖的な再生産しかない (posted at 22:34:15)
偶像の破壊のあとでメディアがイメージをあらたな偶像に仕立て流行の波のなかで新奇さを馴致していく様を見れば神は死んだのではなく死んだふりをしているにすぎないことがわかる (posted at 22:39:13)」
(encore@conceptionfork「Twilog - 2015年03月17日(火)」)