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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<偶像崇拝批判序説

「人々が誤ってカフカのリアリズムと呼んできたものは、彼が自分の中の性急さを払いのけようとするこの同じ本能的な探求を露わにする。カフカはしばしば、わずかな言葉で本質を捉える鋭敏な才を示した。しかし彼は徐々に、細密さや、接近の遅さや、細部の詳細さを(自身の夢を記述する際にも)自身に課すようになった。そうしなければ、現実から追放された人間はたちまち混乱して道を見失い、想像的なもののあやふやさに委ねられてしまうからである。外に迷い込み、その道行きの異様さと不安定さの中でさ迷えばさ迷うほど、ひとは一層、厳密で細心で正確な精神に助けを求めなければならず、多様なイマージュと、その限定されたささやかな(幻惑から解放された)外観、力強く保たれた一貫性などを通して、不在に対して現前しなければならないのである。現実に属している者は、それほど多くの細部を必要としない。周知の通り、それらの細部はいささかも、現実的なヴィジョンの形態に対応していないのである。しかし、無限なるもの、遥かなるものの深遠さに属する人間、そして並外れたものの不幸に属する人間、そうだ、そうした人間は、過剰なまでの限度を、そして欠陥も欠落も不調和もない継続性の探求を宣告されているのだ。宣告される、とはまさにうってつけの言葉だ。なぜなら、忍耐や、正確さ、冷静な抑制といったものは、もはや自分の身を支える何ものも存在しないような時、自分を見失わないために不可欠な資質だからである。だが、忍耐、正確さ、冷静な抑制はまた欠点ともなる。これらの資質は困難を分解し、際限無くそれらを引き延ばすことによって、おそらく難破を遅らせるだろうが、無限なるものを無限定なものへと絶え間なく変化させ、確実に解放の時を遅らせることになるのだ。同様に、作品において、無限なるものの成就を決定的に阻むのもこの節度なのである。
 …………
 「汝、おのれのために偶像を刻むべからず、上は天にあるもの、下は地にあるもの、あるいは地の下の水の中にあるもののいかなる形象をも造るべからず」(『出エジプト記』二十四章)。カフカの友人であるフェリックス・ヴェルチュは、カフカの性急さとの戦いについて実に巧みに語っているが、彼は、カフカがこの聖書の戒めを真剣に受け止めていたと考えている。もしそうであるなら、違反すれば死の報いが持つこの本質的な禁止のもとで、偶像を排さなければならないはずのひとりの男が、突如として、想像的なもののうちに追放され、イマージュとイマージュの空間以外、居場所も生きる術も持たない自分を見出した、と想像してみるがいい。彼は、おのれの死によって生きねばならず、絶望の中で、その絶望──即時の処刑──から逃れるために、自分の受けた刑の宣告を唯一の救いの道とすることを強いられるのである。……そこから非常に不安定なある平衡が生まれる。この平衡のおかげで、彼は正当性のない自らの孤独の中で、厳格さを増してゆく一方の霊的一元論に忠実であることができるのだが、同時に、ある苦行の持つあらゆる厳しさを通じて、ある種の偶像崇拝に身を委ねてもいるのだ。この苦行は、様々な文学に関わる現実を断罪する(作品の未完成、あらゆる出版に対する嫌悪、自分を作家であると見做すことの拒否、等々)のだが、最も重大なのは、芸術をその霊的条件に従属させようとしているということだ。芸術は宗教ではない、「それは宗教に通じてさえいない」。だが、我々が生きているこの苦悩の時代、神々を欠いた、この不在と追放の時代に、芸術は正当なものとなる。文学はこの苦悩の内奥であり、想像的なものの彷徨〔=過誤 erreur〕を、そして究極的には、この彷徨の背後に隠れ、忘却された、捉え難い真実を、イマージュによって明白なものにしようとする努力なのである。」
(モーリス・ブランショ「カフカと作品の要請」)
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