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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<反美学主義

「作者はここで節度をもたねばならぬ。たえず肉体は失われる用意をしていなくてはならないからである。

「シュヴァルツァーを御存知ですか?」とKはたずねた。
「いや、知りません」と村長は言った。「お前はもしかしたら知ってるかもしれないね、ミッチー? お前も知らないって? 二人とも知りませんな」
「それは妙だ」とKは言った、「下級執事の息子なんですがね」
「測量師さん」と村長は言った、「いったいどうしてわたしが、ありとあらゆる下級執事の、そのまた息子を片っぱしから知っているわけがありましょうかね」
「なるほど」とKは言った……(『城』)
 ミッチーというのは村長の妻だ。「なるほど」とKにいわせるのは、村長の言いぐさがリクツの上で妙に筋が通っているばかりではない。いかにも村長のいいそうなことだからだ。村長はその時Kにとって、もはや村長ではない。「城下の村」の村長であり、「城下の村」の住人として意識される。そこでKは、
「なるほど」
 と呟くということになる。Kにとっても、村長はその時、肉体を失ったかたちで、ひびいてくる。肉体を失ったことが、一層手きびしくもあるし、一層彼の闘争心をかきたてもするのである。
 このような「なるほど」ふうな作品は──『変身』は実にこの「なるほど」からはじまっているのだが。気がかりな夢からさめてみたら毒虫になっているということは、すなわち、「なるほど」ということではないか──「なるほど」というたんびに、肉体を消していく作業を行っているのである。肉体にぶつかっては、肉体を消し、その度に一つずつ獲得する、何を? 何も獲得しやしないということの認識をだ。少なくとも『城』においてはそうだ。この認識の一つ一つが消して行くのだ。

 百姓のリュフトナーのところ。大きな板の間。すべてが芝居がかっている。御亭主は神経質にヒーヒーハーハー言い、机をたたき腕を上げ、肩をぴくっと動かし、『ヴァレンシュタイン』の人物のようにビールのコップを上げる。その傍におかみさんがいる。年よりだ。作男だった今の御亭主と十年前に結婚したのである。亭主は猟に夢中で本業をなまけている。馬小屋には大きな馬が二頭、そのホメロス風の輪郭が、小屋の窓からさっと射し込む陽光に浮かび出る。
 これは作者の日記である。作者が療養のためにおこしたチューラウの農村での生活だ。これはたぶん、『城』の中の宿屋に使われているものだ。ここには肉体と肉体をとりまく印象派ふうな世界を見ることが出来る。つまり私たちは、空気を感じることが出来る。確固として馬が、百姓が存在していそうである。周囲に空気をもつ幸福。
 『城』の中には一カ所としてこういう幸福は存在していないように思われる。一行もない。息苦しさは、この空気のなさだ。いったいこの空気のなさは、『城』への距離というものを考えてみると、まったく符号する。この男が、『変身』のグレゴールのように、どこからともなく、ある夜城のある村へ来たということも、ここでは最初から距離はありはしない。距離をうめる空気も。
 彼は日記にあらわれた世界、肉体の世界を消している。拒否していると考えられるのである。」
(小島信夫「消去の論理」)
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