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Lubricate us with mucus. ──2nd season 人間将棋編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<Re: 武器が素早く走るとき

「権力に、あるいは権力機械に対立する革命的欲望があるわけでもない。カフカには、社会的批判の意図的な欠如があることは、すでに見たとおりである。『アメリカ』において、もっとも過酷な労働条件もKは批判する気がなく、ホテルから追い出されるのをますます心配するばかりである。チェコの社会主義的無政府主義的運動には共感していたが、カフカはその道を歩もうとはしない。労働者の列とすれ違うとき、カフカは『アメリカ』のKと同じように無関心である。「この連中こそ世界の主人なのだ。けれど彼らはまちがっている。彼らの背後で、すでに事務員たち、役人たち、職業的政治家たち、現代のあらゆる殿様たちが前進していて、彼らはこうした殿様が権力につくのを準備しているだけだ」。つまりロシア革命は、カフカには、激変や革新であるよりもむしろ新しい切片の生産であるように見える。ロシア革命の拡張は、前進であり、切片的推進であり、暴力が煙をあげることなしにはすまない成長である。「煙は蒸発し、後に残るのは新しい官僚制の器である。拷問される人類の鎖は省庁の書類のなかにある」。ハプスブルク家の官僚制からソヴィエトの新しい官僚制へと変化が起こったことは否定できないが、それは機械の新しい歯車であり、あるいはむしろ今度はひとつの歯車が新しい機械を生み出すのだ。……明らかにカフカは自分のことを党派だと思ってはいない。社会主義者の友人がいても、自分を革命派とさえ思っていない。彼がわかっているのは、すべての関係が、表現の文学機械に彼を結びつけており、彼は同時にその歯車、技師、官僚、そして犠牲者であるということだ。それなら社会的批判を経由しない、経由することのできない独身機械において、彼はどうふるまうのか。いかに革命をおこなうのか。彼はチェコで使用されるドイツ語に対したのと同じように立ち向かうのである。というのもそのドイツ語はいくつかの理由で脱領土化された言語であり、さらに遠くまで脱領土化は進むのであるが、過剰、反転、濃厚化によってではなく、簡素化によって進むのである。簡素にすることによって、言語を直線上に滑らせ、その切片化を促進し加速するのである。表現は内容を牽引し、内容がまた表現を牽引しなければならない。『審判』に出現するような系列の増殖は、こういう役割を果たしている。なぜなら世界史は、決して永遠回帰からなるのではなく、いつも新しく、ますます硬化する切片の増進からなり、その切片性の速度、切片的生産の速度は加速され、切片化された系列は勢いを増し、さらに増強されるのである。集団的社会的機械は、人間の大規模な脱領土化をひきおこすので、私たちはこの方向にさらに遠く進み、絶対的分子的脱領土化に至るのだ。批判はまったく無用である。はるかに重要なのは、現勢的ではないがすでに現実的な潜在的運動に与することである(順応主義者や、官僚たちは、たえず運動をしかじかの点におしとどめようとする)。問題は最悪の政治などではなく、文学的風刺ではないし、ましてサイエンス・フィクションでもない。
 この切片化の加速または増殖の方法は、有限、隣接、連続、無制限に与するのである。これにはいくつか利点がある。アメリカは硬化し、みずからの資本主義を加速しつつある。オーストリア帝国の解体とドイツの台頭はファシズムを準備している。ロシア革命はすさまじい速度で前代未聞の新しい官僚制を生んでいる。プロセスのなかの新たな事態、「反ユダヤ主義が労働者階級を蝕んでいる」等々。資本主義の欲望、ファシズムの欲望、官僚制の欲望。〈死の欲動〉もある。すべてが勢ぞろいして扉をたたいている。もろもろの切片の加速された連鎖を断つために、公式の革命に期待することなどできないのだから、文学機械に期待することになる。この機械は切片の加速を先取りし、もろもろの「悪魔的勢力」が形成される前に、これらを追い越すのである。アメリカニズム、ファシズム、官僚制など。つまりカフカが言ったように、鏡ではなく、進んだ時計であること。抑圧者と被抑圧者のあいだに、まして欲望の種類のあいだに、確かな区別を設けることは不可能なのだから、それらすべてを、大いに可能な未来のほうに牽引しなければならない。このように牽引することが同時に、逃走や防御の線を生み出すことを希望しながら。たとえそれはつつましい、不安な、そしてとりわけ有意的でない線であるとしても。それは動物が、自分にふりかかる運動に与し、それをもっと遠くに推進し、敵のほうに戻り、逆襲し、出口を見出すようなものだ。
 しかしまさに私たちは、〈動物になること〉とは全く別の領域に移ったのである。確かに〈動物になること〉はすでに出口を穿っていたが、そこになだれ込むところまではいかなかった。確かにそれはすでに絶対的脱領土化を実現していたが、きわめて緩やかにであり、単にそのひとつの極において実現していたにすぎない。だからまた捕獲され、再領土化され、新たに三角化されたのである。動物になることは、家族の事情にとどまっていた。系列あるいは切片の増進とともに、私たちはまったく異なる事態に、はるかに奇妙でもある事態に遭遇するのだ。大規模な機械に特有の、社会主義も資本主義も等しく横断する人間の脱領土化運動は、もろもろの系列にそって、高速で実現することになる。こうして欲望は二つの共存する状態に入ることになるのだ。一方で欲望は何らかの切片に、何らかのオフィスや機械あるいは機械の状態に取り込まれ、何らかの表現形式において結晶した何らかの内容形式に結合されるであろう(資本主義的欲望、ファシスト的欲望、官僚制の欲望など)。他方では同時に、まさに線の上を逃走し、解放された表現に牽引され、変形した内容を牽引し、内在性あるいは司法の領野の無制限性に到達し、出口を、厳密な意味での出口を見出す。そして機械とは、単に欲望の歴史的に規定された凝結にすぎないこと、欲望はそれをたえず解体し、たえずうなだれた頭をもたげるということを発見するのだ(資本主義、ファシズム、官僚制に対する闘争、仮にカフカが「批判」に身を委ねた場合よりもはるかに強度なものとなる闘争)。……機械状のアレンジメントを分解すること、それは〈動物になること〉によっては把握することも、まして創造することもできなかった逃走線を、現に創造し把握することである。これはまったく別の線であり、まったく別の脱領土化なのだ。この線はただ精神においてだけ現前するものだ、などと言わないでほしい。確かに、書くことさえもやはりひとつの機械であり、書くことも、たとえ出版されなくても、ひとつの行為なのだ。書くことの機械もまた機械であり(他のものに比べて上部構造でもイデオロギーでもなく)、資本主義、官僚制、ファシズムの機械のなかに取り込まれ、あるいはつつましい革命的線を描くのである。カフカの常に変わらない観念を肝に銘じよう。たとえ孤独な技師とともにあるにすぎなくても、表現の文学機械は、否応なく集団全体にかかわる諸条件において内容を先取りし、加速することができるということである。反叙情性、つまり「世界を把握すること」、それは世界から逃走し、あるいは世界を愛撫することではなく、世界を逃走させることである。」
(ドゥルーズ+ガタリ『カフカ──マイナー文学のために』)
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